三 絆が切れる時

 それから月日は流れ、悟は受験勉強のかいあって第一志望の高校に入り、自ら進んで寄宿舎に入った。そのため、以前のように毎日顔を合わすことはなくなった。それだけに兄弟という絆が、プッツリ切れたような気がしてならなかった。それも永遠に戻らぬかのように……
 一方、高見智子は一度退社を決意したものの、(あのレイプについては、会社側には単なる仕事の疲れによって倒れたとか、ごまかすしかなかったが)彼女の実力を認めている上司と人事が何とか思い止どまらせて、やはりこれまで通り会社を続けることになった。
 彼女にしてみれば、その頃は一番辛かったのだろう。何も知らない同期の友や職場の先輩OLたちは、元気のない彼女を心配しながら励まし続けているしかなかった。その結果、次第に少しずつ笑顔を取り戻しつつあった。
 そして……
 また月日は流れ三年が過ぎようとする頃、三月の下旬、悟の卒業式は終った。それこそ誰も家族のつき添いのないひとりぼっちの卒業式だった。翌日からは春休みになり、寄宿舎から社内寮へ引っ越しの準備のため、一週間ほどこの家に住み、一時兄弟の縁を取り戻したかのように思えたが……
 悟は兄とちがう会社の就職内定も決まり、これもまた社内寮へ自ら進んで入ることになったため、さらにまたお互い一か月、二か月ともすれば半年も逢えないかも知れない。
 引っ越しの準備がほぼ終り、春休みも終りかけようとしている時のことである。この日もまた残業で遅くなり、兄弟ふたりで遅い晩食を食べていた。あとから思えばこの日こそ、兄弟の絆が永遠に切れた最初の日ではなかったか……
 食後に、ふと悟が言った。
「あとで、話しておきたいことがあるんだ。もしかしたら兄弟でいられるのは、今日が最後かも知れない」
「何言ってんだ、悟。今までもこれからも兄弟じゃあないか」
 勝はその時、悟が何を考えていたのか、おそらく想像もできなかった。あとから思うと、弟・悟の行動がこんなにもおそろしいものだったとは、今さらながらゾッとしている。
 勝の部屋へノックしたのは午後九時前だった。
「悟か。入っていいよ」
 カチャ、ドアが開き、悟の思いつめたような顔が入って来た。両手には二個の紅茶カップを載せた盆があった。そのひとつを兄に差し出す。
「悟。いよいよ明日から悟も社会人となるんだ。いろいろ気苦労もあるだろう。今まで以上あまり逢えないかも知れないけど、僕は兄としてまた社会人の先輩としてそのつもりでいるから、困ったことがあったらいつでも訪ねてきていいよ。ところで、何か話があるんだったね。それを聞かしてもらおうか」
 悟は手に持っていた紅茶を飲み、何か考えていた。まるで何か決心するために、言葉を探しているようだった。ふとその言葉が耳に入った。
「愛って、何だろう」
「あい? 愛することの愛のことか」
「父さんは僕たちのこと、愛してたかな」
「悟。何を言ってるんだ」
 悟はうわの空で紅茶を飲んでいる。そしてまた、言葉を探しているような口調で話す。
「父さんは海外勤務してるから、この家に帰ってくるのは年に一度か二度。でもたまに帰ったかと思うと、急に仕事が入ると、さっさと行ってしまう。僕たちには気をつかってくれて、たくさんのおみやげ、こづかいもくれたけど……」
 ここまで言った悟は、急に爆発したように次の言葉を叫んだ。
「そんなのは愛じゃない。ただの義務だ!」
「義務。義務だって……?!」
 絶句したまま、勝はしばらく噤んでいたが、
「悟。寂しかったのか。父さんと母さんがいないことが、たまらなく寂しかったんだね。それは僕も同じだ。でも悟がいつもそばにいたから、ちっとも寂しくなかった。悟もそうだろう」
「ちがう!」
 悟が叫んだ。まるで心の奥に秘めた何かを爆発させるかのように……
「ちがう? 何がちがうと言うんだ」
 悟はほとんど飲み終えたばかりの紅茶カップをそこらへんに置いて、また話し始める。
「僕は、……僕は兄さんだけを見つめていた。もの心ついた時から。父も母もなく、いつもそばには兄さんだけがいた」
 からになったカップを見つめていた悟の視線は、兄の方へ向いた。
「僕の愛はいつだって、心に正直だった。幼い時から両親のない寂しさから、いつも兄さんだけを見つめていた」
 勝は、背中に冷たいものが走るのを覚えた。もう春とはいえ、まだ寒さの残る四月の始め頃である。
「それなのに、兄さんはほかの女の人と逢って、僕のことを忘れてる。いやだった。その時の僕はしっとに狂っていた。僕の愛が奪われるなら、いっそ奪ってしまいたかった。でも、その勇気もなかった」
 何やらおそろしいものを聞くような気持ちで、勝は何も言えなかった。と、その時、ベッドに腰かけている勝を、悟は襲いかかる!
「な、何をする!」
「兄さん! 僕の愛はいつも兄さんだけだった。今この場で兄さんを奪ってやる!」
 おそろしい力だ。細い体のどこに、そんなバカ力が出て来るのか。
 勝はベッドに倒れ込まれた。くちびるが奪われそうだ。グッと力を入れて押し返そうとしても、時すでに遅くくちびるは重ねてしまった。異様な感覚が頭をよぎる。
「……!」
 同時に悟の右手はいつの間にか、勝の<あそこ>へ手かけようとする。勝の体に電気が走る!
 悟の押さえつけていた力が半分になったところで、思わず突き飛ばし、そのいきおいで右手のこぶしを悟の顔面にくらわした。バキッ、にぶい音とともに、悟は転げ落ちた。
 勝はおそろしかった。わが弟ながら、こんな行動を取る悟の心がおそろしかったのだ!
 悟はゆっくり起きなおし、血が出ている口もとを左手でぬぐって立ちあがった。
「さよならだ。兄さん。僕たちはもう兄弟ではなくなった」
 その一瞬、いつも内気だった悟の顔が、悪魔のような形相に変わった。口もとに気味悪いうす笑みを浮かべながら、静かにドアの向こうへ出て行った。部屋に残ったのは、割れて床に散乱した紅茶カップの破片だった。
 その入れちがいに、パタパタ、スリッパの足音が聞こえたかと思うと、あわただしいノックとともにお富さんの声が飛んできた。
「勝ぼっちゃま。さきほどの音は何でございますか」
「何でもないよ」
「でも今さっき、悟ぼっちゃまがすごいお顔で……」
「何でもないったら。割れたカップを片づけてちょうだい」
 実際、勝は犯されたのだ!
 これははずかしいことだが、男がおとこに、しかも兄が弟に犯されたのだ。勝はこの屈辱を与えた弟・悟をおそろしいと思い、また憎くも思った。くちびるには、まだあの異様な感覚が残っている。すぐに、うがいをした。まるで汚らわしいものを食べたかのように……
 その晩、勝は眠れなかった。おそらく悟も同様だろう。
 翌日、悟は逃げるように朝早くから寮へ出かけて行った。引っ越しの荷物は宅急便にまかせて、手ぶらで行ったらしい。
つづく