新誠小説

海 の 墓 標

序 嵐の夜

「あいつを殺してやる!」
 そう叫んで、男は近くに駐車してあったクルマに飛び乗った。
 いつのまにか雨が降っていた。風も強く吹いている。どうやら今夜は荒れそうだ。嵐になるかも知れない。
 それでもクルマは走った。ただひたすら走った。雨のつぶがフロントガラスを強くたたいて、ワイパーも忙しげに動く。対向車のライトがまぶしい。アクセルを踏み、スピードが増すごとに、男の気持ちは殺気があふれようとした。
 ――あいつを殺してやる! もはや許すことはできない。あいつは僕にとっての大切な女性を殺したも同然だからだ! だから許せない。
「あいつを殺してやる!」
 クルマはいつのまにか、隣県の海岸国定公園に入っていた。国道を北上して、ここまで約三時間、クルマを飛ばしたのである。
 雨は強く降り、風も吹き荒れていた。かなり暗くなり、観光地とはいえ街灯はなく、E岬の先端に立っている灯台のサーチライトが、周囲を照らしている。
 その時、男は見つけた。照らしまわり続けるサーチライトに映った一瞬の影……!
 ――まちがいない! あいつだ!
 海岸国定公園の駐車場でクルマを乗り捨てた男は、〈あいつ〉の姿を求めてこの暗い中を探しまわって、ようやく見つけた。
 E岬は日本海に面していて、今夜は嵐のため、荒あらしい波が岬の切り立った断崖にどとうの如くぶちあたる。その先端に、ひとりの女が日本海をながめるように立っていた。雨も風もまるでものともせぬように……
 女のうしろ姿はどこか寂しげだった。だが、今の男は殺気であふれて、見つけるや否や、叫んだ。
「さとる!」
 この声を予知していたのか、女はゆっくり振り向いた。嵐の夜、暗くてわからなかったが、サーチライトの光が一瞬その姿を浮かべた時、女の顔はまるでこの世のものとも思えぬほど顔面蒼白だった。それでも男は、強く降る雨の中で叫んだ。
「さとる。きさまの愛というものは、そんなにもわがままだったのか! 兄と弟が愛し合うことなぞ、今の世の中では許されないはずだ!」
 兄と弟……?
 それではこの異様な雰囲気のふたりは兄弟であったのか。そして、女と思っていた人物とは、……
 なぜ、このようなことになったのか、それはちょうど五年前に逆のぼらなければならない。

一 兄と弟

「ただいま!」
 それは、市田勝が居住している自宅の玄関へ入るところだった。時刻は午後八時前。ちょうど高校を卒業して就職したばかりの初夏の頃、いわば社会人となってまだ三か月、学生気分が抜け切らず、毎日の残業でクタクタになってまだ社会環境には充分に慣れていない時でもあった。
「お帰りなさいまし。お食事の準備が整っております」
 この家に家政婦として住み込んでいる、お富さんが出迎えた。お富さんは頭に少し白髪が見える初老の小太りだが、家政婦としてはベテランの中のベテランで、今も元気だ。
 玄関でクツを脱いだ勝は、スリッパに履き替えた足でキッチンへ向かう。食卓を囲むイスのひとつに座ると、二階から階段を降りてくる足音を聞いた。トン、トン、トン……
 元気のない足音だ。足音がキッチンに入りかけるや否や、弱よわしい声が聞こえた。それが、弟の悟だった。
「お帰り。毎日残業で大変だね」
「ただいま、悟。あれ、まだ食べてなかったのか」
「うん。たまには一緒に食べたいもの」
「そうか。じゃ一緒に食べよう。もうハラペコで死にそうだ。いただきます」
「いただきます」
 食卓にはそれぞれ勝の分と悟の分の食事が置かれてあって、悟はいつも兄が帰って来る前にひとりで食事を済ましていたのである。
「悟。今、勉強で大変だろうが、あまりムリすんなよ。高校受験のために体をこわしちゃ、元も子もないからね。そうだ。僕の学生時代に使っていた参考書や問題集、まだ捨ててなかったはずだから、あれ全部、悟にやるよ」
 食事がほぼ終りかけて、お富さんの入れてくれた紅茶を飲みながら話しかけた。悟も同様、紅茶を飲んでいる。
「ありがとう。やさしいんだね」
「バッカ。何言ってんだ。兄弟じゃあないか」
 この会話でわかると思うが、弟・悟は今中学三年で、来年の高校受験のために早くから精出している。いわゆる優等生タイプではないが、競争率の激しい高校を目指しているため、内気だった悟はこの頃めっきり口数が少なくなった。実際、兄の勝に対しても幼い頃のようにあまり話さなくなり、またよそよそしいようでもあった。それは受験勉強に対しての疲れのためだろうし、一度決め込んだらとことん思いつめてしまう性格だから、致し方なかった。
「それじゃ、また勉強するから。おやすみ」
 紅茶を飲み終えて立ちあがろうとした悟を、勝は呼び止めた。
「あっ悟。今度の日曜日、どっかへ遊びに行かないか。ほんの気分転換のつもりで。そうだな。遊園地なんかどうだ。子供みたいだが、いいだろ」
 実際、連日の残業で疲れていた。だが、それ以上に弟が受験勉強のために性格まで変わってしまうのは、兄として堪えられない。このまま悟が、だんだん他人のようになってしまうような気がしてならない。だから一度でもいいから、兄弟の仲を取り戻したかったのだ。
「せっかくだけど、今はそんな気分になれないから。いつか気晴らしに行くこともあるだろうけど、今は当分……」
「そうか。わかったよ。受験勉強がんばってくれ」
「うん。おやすみ」
 そう言い残して悟は、二階への階段を登って行った。トン、トン、トン……
 あの弱よわしい、元気のない足音だ。二階からドアがパタンと閉まる音が聞こえると、仕事の疲れが出たのか、急に体がだるくなってきた。風呂に入って早速ベッドにもぐったのは、午後九時半頃。隣の部屋からは、悟の鉛筆を動かす音がしてくる。
 勝にも中学の受験時代はあった。だが、今の悟のように性格が変わってしまうようなことはなかった。むしろ、健全に受験時代を乗り越えて入ったのが、今年卒業したばかりの高校だった。三年間、いろいろな想い出があった。
 その中でも、ひときわ淡い想い出があった。それは、恋だった。二年の時に同じクラスになって知り合い、お互いにひとめぼれしたというから、恋の感覚にしてはほど遠いかも知れないが、三年は別のクラスになっても交際は続き、それが今の会社に至った。同じ就職先希望で入ったのは、もちろんお互いの交際を続けたいがためもあったが、配属先は離れているのでお互い逢えないのがしばしばだった。慣れない仕事に精出して、ようやく三か月経った今、余裕を持つようになって昼食休憩時間には時どき逢うことはできた。もしその高校を受けなかったら、恋というものを知らずにいたかも知れないし、今の会社にいなかったのかも知れない。
 そう考えながら勝は、ベッドの中にいても、あまり眠れなかった。隣でまた鉛筆の音が聞こえてくる。眠れないまま、さらに考えた。
 弟・悟は受験地獄のために性格が変わってしまったのだろうか。それもあるだろう。否、やはり家庭問題もあったのだ。この家にはもの心ついた時から兄と弟、そして家政婦のお富さんだけの三人しかいなかった。父と母はいないのか。
 否、母は勝が六歳の時に病気で亡くなっている。悟はその時二歳だったから、何も覚えてはいないだろう。
 父は……
 俗にいう海外出張だが、この家に帰ってくるのは年に一度か二度、勝や悟のために生活に必要な資金や小遣い、おみやげもくれるけど、また仕事が入ると海外へ飛んで行くという、海外出張よりは海外勤務と言った方がいいかも知れない。
 言うなればお富さんが親代りとなっていたのだ。
 時刻は、もはや深夜零時になりかかろうとしている。それでも頭は冴えきって、ますます眠れない。体は疲れているはずなのに早く眠らなくては、とあせっていても寝返りをうつばかりだ。隣の部屋でまた、鉛筆の音がする。
 何を考えるでもなく、その音を聞いていた。まるで子守唄のようだ。いつしか眠ってしまった。

二 レイプ

 翌朝、目覚し時計のけたたましい音に起こされた勝は、いささか寝不足で頭がボォーッとしている。
「おはようございます。今朝はとっても好いお天気でございますよ」
 住み込みのお富さんは、忙しげに朝食の準備に取りかかっている。
「おはよう。悟はまだ起きてないようだね」
「さようでございますね。昨夜も遅くまでお勉強なさって」
 突然、悟が現れた。二階から階段へ降りる音が、全然しなかったのか。勝が降りた時は、トントントン、と慌ただしかったのに……
「おはよう。眼が真っ赤じゃないか。あっこれ、昨夜話しておいた参考書と問題集、必要なだけ持っていくといいよ」
「おはよう。ありがとう。じゃ、これだけもらっておくよ」
「じゃ、僕は出かけるから。行って来ます」
 そんな会話をしながら、ちゃっかり朝食を済ましていた。トーストにコーヒーという簡単なものだから。
「行ってらっしゃい。今夜も遅くなりそうだね」
 悟の言葉に送られて、勝は会社へと歩いた。会社は徒歩約三十分の所で、クルマはまだ所持してない。運転免許証は高校卒業以前にすでに取得しているが、今、金の余裕がないので、いつか買うことを計画している。
 家を出て十分くらい経った所で、声をかけられた。
「おはよう。市田くん」
 これが高校二年からつき合っている、高見智子である。新人OLという服装で、ミニサイクルで通勤している。勝の家より遠い。
「おはよう。今日も早いね」
「うん。じゃ、お先にね。お昼にまた逢いましょう」
 手を振って彼女は、スカートが乱れるのを押さえながらペダルをまわして、早そうと去って行った。
 今日もまた忙しくなりそうだ。入社のために新調した背広も、三か月経てばすでにくたびれている。そろそろ新しいのを買っておこう。
 会社に出勤して、今日もまた忙しく仕事に追われた。六月も始まったばかり、新入社員はようやく仕事を覚え始める頃で、これからはいよいよ残業も毎日まいにちやらされるだろう。
 女子も同じで、特に高見智子はめきめきとワープロの仕事をこなし、男顔負けの実力を身につけていた。実際、彼女の残業はこの頃、週勤残業時間をはるかにオーバーすることもしばしばあった。特に今夜は遅かったのだ。
 いつもの通り、残業を終えて退勤したのは七時半頃、それから徒歩三十分の家へ帰るところだった。初夏のこの時間は、夕方の暗さからようやく闇の暗さになる頃でもあった。
 家まであと十五分ぐらいの所で、ふいにうしろから自転車の音が近づいて来た。振り向くと、ダイナモライトが光っている。その自転車が、そばまで来ると止まった。彼女のミニサイクルだった。
「智ちゃん。今ごろ帰りなのか」
「うん。もうクタクタよ」
 甘い香水のにおいが漂っている。
「僕の家すぐそこだけど、その前に君の家まで送ったげるよ。こう暗くっちゃ、女のコひとりはあぶないよ」
「ううん。だいじょうぶよ。平気」
「でも」
「だいじょうぶだってば。通い慣れた道なんだもの」
「そうか。じゃ、気をつけて」
「ありがとう。また明日ね」
 彼女は手を振って、ペダルをまわしながら去って行った。そのうしろ姿を見送った勝は、この時、強引にも送ってやるべきだったと、今さらながら悔やむのだった……
 家へ帰った勝は、お富さんの声に驚いた。
「勝ぼっちゃま、お帰りなさいまし。あの、悟ぼっちゃまが、まだお帰りになっておりませんが……」
「えっ。悟、まだ学校から帰ってないの?」
「いえ、今日は塾のある日ですから、そこへ行かれたと思いますけど、それがまだお帰りになりません」
「塾の方へは電話してみた?」
「はい、それがもう終ったあとでして。ですから、もうそろそろ帰ってもいい頃ではないかと案じておりますが」
「フーン、珍しいこともあるもんだ。どっか気晴らしにでも遊んでんじゃないかな」
「それだと、いいんですが、連絡のひとつぐらい、してもいいんじゃないかと」
「それもそうだね」
 だが実際、三十分経っても一時間経っても、悟は帰らなかった。時刻はもう九時に近い。何かあったのか。そう言えば、近くに救急車のサイレンが聞こえたような気もしたが、交通事故でもあったのか……
 ジャァアーン、電話が鳴った。
「はい、市田家でございますが」
 お富さんが受話器を取った。
「えっ、高見さまのお母さまでいらっしゃいますか。いえ、あたしは家政婦でして。勝ぼっちゃまですか。ええ、いらしております。少しょうお待ちくださいまし」
 そう言ってお富さんは、キッチンで紅茶を飲んでいる勝を呼んだ。不安でならなかった。悟はまだ帰ってない。
「はい、お電話変わりました。市田勝ですが……」
 相手の言葉を聞いた時、後頭部を鈍器のようなもので殴られたようなショックを覚えた。
「と、智ちゃんが、じ、自殺未遂?!」
 なぜだ!
 なぜ自殺なんか……
 タクシーを飛ばし、病院へ向かった勝はしきりにそればかり考えていた。
 病室へ飛び込び、そこに見たものは……
 左手首に包帯を巻かれ、青白い顔で泣きくずれていた彼女がベッドの上に座っていた。横に母親がイスに腰かけて、彼女をなぐさめている。
「と、智ちゃん」
 そう呼びかけるや、彼女は両手を顔にあてて、ワッと泣きくずれた。
「いやァ来ないで、あたし汚れてしまったのよ!」
「………!」
 勝は声にならない叫びをあげた。
 ――ああ、何と言うことだ。それじゃあの時、僕と別れてひとり帰った君は暗い道の中、誰か見知らぬ人に犯されてしまったのか。そしてそれを恥じて自殺しようとしたのか……
 しばらく沈黙が続いた。
 ――智子。その深い傷跡から、君を救うことは無理だろうか。あの時強引にも送ってやれば、こんなことにはならずに済んだのに……
 勝は悔しくてならなかった。今さら悔やんでも始まらないのだ。まだ泣きくずれている彼女のそばへそっと寄り、静かに声をかけた。
「ふたりで、その傷をいやそう。時の流れがその傷の痛みを和らげるだろう。それまでに、いやずっと一生、僕は君のそばにいてやろう。僕は誓おう。その傷をいやすために努力をしよう。これからはどんなことがあっても、君を守ろう」
 彼女はまだ泣きじゃくっている。まるで愛される資格を失ったかのように……
 その震える肩を抱いた。最初いやいやしていたが、次第に安心したかのように、勝の胸に落ちていった。勝は、心の痛んだ彼女をどんなことがあっても生涯絶対守ってやると、心の中に誓いを立てた。
 いつの間にか勝は、弟・悟のことをすっかり忘れていた。悟はどこにいたのか……
 いつしか勝と入れちがいに帰っていたのだった。ふと気づくと、左の手首から血が流れていた。
 だが彼女のことが精いっぱいで、悟のことに構ってやることはできなかった。それが、あのような惨劇を引き起こそうなどとは、夢にも思わなかった。
つづく】【TOP