三月の午後――
これを読む前に一応ことわっておく。前回の第七話の時期は三月だったが、今回も少しズレて、三月の中頃である。
地方鉄道Y駅に、ひとりの婦人が降り立った。五十代くらいだろう。スプリングコートを身に包み、右手にはボストンバッグが提げられていた。プラットホーム駅内の案内板を頼りにウロウロしている。どうやら旅なれてないようだ。
やっと改札を出たかと思うと、今度は出口を探してウロウロ。この駅は二階建てになっているので、階段を降りなければ外に出られない。どうにかこうにか駅を出てタクシー乗り場へ向かった。
「このメモに書いてある所まで」
婦人は運転手に住所のメモを見せた。やがてタクシーは発進した。
Y駅からおよそ十分経った所に、モリサイクルがあった。
料金を払って降りた婦人は、まずその店構えを眺めまわした。ガラス張りになっているので、店内の様子が見える。展示用の自転車数台とサイクル用グッズ、工具、サイクリングウエア(ジャージ、レーパン、キャップ、グローブなど)が整理整頓されていた。
人がいることに気づいて、婦人はドキンと胸をおどらせた。今まで行方知れずだった息子と五年ぶりに会えるのだ。そう思うと居ても立ってもいられなかった。いそいそとはやる気持ちで自動ドアを踏んだ。
「いらっしゃい」
だが、婦人はガッカリした。森和彦だったのである。その森も相手を見て不思議そうな顔をした。どう見てもこの辺の人ではないと直感したからだ。旅行用カバンを持つ身でサイクルショップにいったい何の用事があるのか。
「あ、何かお求めでしょうか」
森は接客のスマイルをつくろった。婦人は少しほほ笑みながらお辞儀をした。
「息子がお世話になっております」
「ハ、息子さん?」
「これは申し遅れました。わたし、北野好美の母でございます」
「あ、北野くんのお母さんですか」
森はあわてて、うしろ向きにかぶっているキャップを脱ぐと一気に頭をさげた。
「い、いや、こちらこそお世話になっています」
「いいえ、こちらこそ……ところで息子は、このお宅に?」
「ハァ、あいにく、今は出張しております。まもなく帰って来る頃でしょう。どうぞ、北野くんの部屋へ」
森は北野好美の母・千佳を二階の部屋へ案内した。お茶と茶菓子を出しながら、
「まもなく帰って来ると思いますので、それまでごゆっくり」
ドアが閉まると、千佳はゆっくり北野の部屋を見まわした。コタツとたたんだ夜具、座机の横にはサイクル用バッグが無造作に置かれていた。
「よっちゃん……今度こそ、連れて帰るわよ。そのつもりでいらっしゃい」
そうつぶやいた千佳の瞳には、重大な決心を示すような光があった。
北野好美は<出張>と称して、得意先の家をまわって自転車の修理や整備を行なっていた。今までは森和彦が軽のバンでまわっていた。それを北野が軽のバンではなく、MTBでまわるようになって、近所や得意先の噂が増えた。また、北野とは別の自転車とレーシングユニフォーム(長袖とタイツ)が春の風のように、この街のあちこちに見かけるようになった。
「カ、カッコイイ、デス」
テッチャンこと橋本哲も、そんな自転車の人たちを見たことがあったくらいだ。
出張の仕事をおえてモリサイクルへ帰り着いたのは午後二時を過ぎていた。あまり寒くもなく、例年より暖かい日だ。だから北野のからだはすっかり汗をかいていた。
「ただいま、帰りました」
「お、ご苦労さん」
出迎えた森はつけ加えた。
「君にお客さんだ」
「え……?」
「店のことはいいから、部屋へ行きたまえ。君の部屋にお客さんを通してある」
「おれに客? 誰ですか」
「行けばわかる」
森はつっけんどんに言いながら、二階への階段を親指で示していた。北野はシャワーを浴びたいのをガマンして階段をのぼった。客っていったい誰だろう。ハッと思いあたったらしく、急に不安になった。
「まさか……」
自室の前に来た時、北野は一度深呼吸した。ちょっと迷いはあったが、ゆっくりドアを開けた。中にいた婦人が振り向いて、北野を見た。
「お、おふくろ……」
「しばらくね。よっちゃん」
笑顔で話そうとする千佳に対して、北野の口調は冷たかった。
「な、何しに来たんだよ」
「何しにって、もちろんよっちゃんを連れ戻すために」
「よっちゃんだなんて呼ぶな!」
北野は一気に怒鳴った。
「今すぐ出て行ってくれ!」
その声が、店にいる森の所まで聞こえて来た。
「おれはもう
故郷へ帰るつもりはないんだ。頼むからおれをこのままにしてくれ。頼む」
「ハイそうですかって素直に返事するような親があると思って? 第一、あんたはもう二十四でしょう。そんないい年の大人が定職も持たず、自転車でブラブラしているなんて、世間が何と言うのでしょう」
「そんなことはもう聞きあきた」
北野は千佳をにらんだ。
「今、おれのことを二十四歳の大人と言ったな。それじゃあんたは何なんだよ。小さい子供を呼ぶような感覚じゃないか。よっちゃん、なんて。もういい加減にやめろよ」
「それじゃ好美。あんたはいつまでこんなことを続けるつもりなの。自転車で全国をまわって、それで生計が立つの? まさか、ルンペンみたいなことはしてないでしょうね」
北野はカッとなった。
「そんな人をバカにしたような言い方はないだろう!」
「夢だか生きがいだか知らないけど、それだけで渡って行けるほど、世の中は甘くないのよ」
「そんなこたぁわかってるよ」
北野の怒りが頂点に達した。
「いくらあんたが産んだ子供でも、おれはおれだ。おれにはおれなりの生き方があるんだ。自分で決めた人生に、親が口を出す権利なんて、ないだろう」
「だからと言って命を捨てるような人生に、親は黙っていられると思って」
「何度言えばわかるんだ。これは男の生き方なんだ。人生なんだ。冒険なんだ!」
「男なら家族を守るために働くというもの」
「そんな考えなんてクソクラエだ」
「好美!」
千佳は一気に右手を振りあげた。ビンタをくらわすつもりだったが、とっさの機転で思いとどまった。カッとなった気持ちを静めるように、
「……やっぱり
美奈子が原因なの? あんたがそんなにまで固執するのは」
「みーなのことは関係ない。ましてやみーなの障害のことも関係ない。すべておれの問題だ」
「好美、あの事故のことはもう忘れてちょうだい。わたしもお父さんもそれなりに忘れようと努力しているのよ。だからあんたも」
「みーなのことは関係ないと言ったろう」
「もう、自分を責めることはやめてちょうだい」
「しつこいな、あんたも」
北野は横向いた。
「とにかく何と言われようと、おれは絶対帰るつもりはない。だからもう帰ってくれ。はるばる来てくれて悪いが、もう話すことはない」
北野は千佳を見なくなっていた。千佳は何か言おうとしたが、思いとどまった。見ようによっては泣いているように見えた。やがて何も言わないまま、部屋を出て行った。
階段を降りる足音を、背後で聞いた北野は、複雑な表情だった。崩れるように座り込むと、怒りをぶつけるために、こぶしで畳をたたいた。
階下では、様子をうかがっていた森があわてるように店へ戻った。そこへ千佳が降りて来た。
「あ、もうお帰りですか」
千佳は頭をさげながら、
「どうか、息子をよろしくお願いします。ふつつかな者ですが」
「あ、いや、こちらこそ」
森が頭をさげると、千佳はもう一度お辞儀をしてからモリサイクルを出た。森は店を出て、北野千佳のうしろ姿が遠くなるのを見届けて、また深く頭をさげた。店内に入って階段の方を見たが、北野が降りて来る気配はなかった。どんな事情なのか、今の森には皆目わからない。だが訊くことは当分ひかえておこうと思った。
その時、人の気配を感じて森は振り向いた。いつの間に帰ったのか、娘の夕子が店の中にいたのだ。
「ゆ、夕子……?」
森はひどくおどろき、またうろたえていた。もしや、今の北野とその母親のことを見たり聞いたりしたのではないか。
「おまえ、今までそこにいたのか」
夕子は少しうなずいた。その表情は、北野とその母親の会話を一部分にせよ、聞いてしまったことを物語っているのだ。
「……お夕飯の支度してくるね」
そう言って夕子は店の奥へ入った。その入れちがいに、北野が店へ現れた。森に目礼すると、自分の仕事に取りかかった。まもなく台所の方から炊飯のいいにおいが漂ってきた。トントントン、音も聞こえてくる。何か野菜を包丁で切っているのだろう。
民鉄Y駅内で、北野千佳は途方に暮れていた。この街には民鉄Y駅と地方鉄道Y駅があるが、同じ駅舎にあるのではなく、別べつの場所に建っていた。千佳が降りたのは地方鉄道Y駅の方で、そこからはタクシーでモリサイクルへ向かったのだが、帰りは茫然として歩いてしまったので、地方鉄道と民鉄をまちがえたのだ。タクシーで来た道順をおぼえてなく、道路標識と案内板を頼りにしたのがいけなかった。
駅員に訊いてちがう場所だと知った時、千佳はどうしようもない疲れと寂しさにおそわれた。もともと旅慣れてなく、また息子に手ひどく追い出されたのも大きな痛みだった。歩く元気もなく、大きな柱に寄りかかった。そのまま座り込んでしまった。
駅内を行き交う人びとは、そんな婦人をいちべつするだけで通りすぎるだけだ。千佳は泣きそうになって、顔に両手をあてた。思い切り泣き出してしまいたい。
「おばさん、どうかしたの?」
ふと、そういう女の子の声が、千佳の耳を打った。千佳はおそるおそる両手を放して見あげた。心配そうにこちらをのぞいている女子高生がいた。そのうしろには、少年が立っている。
「どこか気分でも悪いの?」
女子高生がまた尋ねた。千佳は赤面になりながら立とうとした。が、不安定な
様体だ。それを、女子高生がたすけ支えた。
「あ、ありがとう。何でもないの。心配かけてごめんね」
千佳はムリに笑おうとした。
「おばさん、よかったらカバン持ったげようか。アタシ、おばさんと一緒に行ったげるから」
それでも千佳は静かに首を横に振った。ひったくりを用心したからだ。
「おばさん、この街の人じゃないでしょ。さっきから気づいてたけど、この駅の中で迷子になってるんじゃない?」
心配そうに訊く女子高生に対して、千佳は何もこたえなかった。女子高生は一度うしろの少年と見かわした。その少年が千佳に近寄る。
「ダ、ダイジョーブ、デスカ。シホチャンワ、ホントーニ、シ、シンパイシテマス、デス。ダカラ、オバサン、タスケテホシーコト、アッタラ、ナンデモユッテクダサイ、デス」
すると千佳は何かびっくりした表情になった。目が大きく見ひらかれ、口がワナワナふるえている。
「み、美奈子……?」
「ミナコ、デワアリマセン。ボ、ボク、テッチャン、デス。ヨロシクオネガイシマス、デス」
そう言ってテッチャンこと橋本哲は勢いよく頭をさげた。もうお気づきであろうが、女子高生は高和志歩であることは言うまでもない。
「テッチャン、自己紹介はいいから」
と言ってから千佳を見た。
「おばさん、ホントに大丈夫?」
千佳は哲ばかり見つめていたが、志歩の声を聞いて我に返った。
「あ、おばさんね、この街には不案内で迷子になってしまったの。地方鉄道Y駅へ行きたいんだけど、案内してくれるかしら」
「まかせて!」
志歩が胸を張った。
「ボ、ボクガ、カバン、モ、モチマス、デス」
「そぉ。ありがとう」
「おばさん、どこから来たの」
「Y県よ」
「Y県?」
志歩はわが国の地図にはうといのだ。
「え〜と、どの辺だったかな〜。アタシ、国の地図のこと、全然わかんなくて」
そう言いながら肩をすくめてベロを出した。
「中国地方よ。わかる? あ、じゃ、本州の南の所だと言えばわかるかしら」
「ヘェー、遠い所から来たんだ。旅行?」
「あ……」
言葉をにごした千佳はわずかにうなずいた。
「ええ……」
「それで、これから帰るの?」
「ええ」
「テッチャン、よそ見しないの!」
「ハイ、デス」
三人は駅を出て雑踏の中を歩いていた。カバンを持っている哲はキョロキョロして落ち着かない。すれちがう人びとの顔かおを見つめることを不躾だとも思ってないのだ。それを志歩が注意したわけだった。そんなふたりに、千佳が質問した。
「あなたたちは、きょうだいなの?」
「ヤダー、まさか。アタシたち、きょうだいじゃないよ」
志歩が強く片手を振れば、哲も言った。
「キョーダイデワアリマセン、デス。ボ、ボクニワ、カァチャンガ、イマス、デス」
「え、カァチャン?」
ポカンとする千佳に、志歩があわてて説明した。
「あ、妹のことなんだけど、このテッチャン、妹のことをカァチャンって呼ぶらしいの。アタシ、まだ会ったことはないけど、この春からアタシの高校に入るんだ」
そうなのだ。高和志歩は希望の丘高校一年生で四月には二年に進級する。欠席の多かった一年間だったが、規定外の補習教育を受け、進級受験に合格したのだ。
「そぉ……テッチャンには、しっかりした妹さんがいらっしゃるのね」
「ハイ、デス」
哲を見つめる千佳の様子が少しおかしかった。涙がにじんでいるようだ。志歩がいぶかる。
「おばさん……失礼だけど、おばさんにもそういう障害の子供さんがいるんだ?」
「ええ、まぁ……」
「ふーん」
志歩は気がねしてこれ以上は訊かなかった。
「大変だね、おばさんも。どんな家庭か、わかんないけど人に言えない事情ってあるんだよね。でも負けないでがんばってね」
「ありがとう」
三人はいつの間にか地方鉄道Y駅に着いていた。
「おばさん、どのルートで帰るか、わかる? よかったらアタシが、駅員に聞いたげよっか」
千佳はゆっくり首を横に振りながら、
「ありがとう。その気持ちだけで充分。わたしはあなたたちの親切、決して忘れないわ。テッチャンとシホちゃんだっけ。わたしは北野千佳」
「きたのちか、さん……それじゃ、気をつけて帰ってね。テッチャン、カバン」
「ハイ、デス」
哲は手提げていたボストンバッグを千佳に返した。
「ありがとう。テッチャン、えらい子ね」
「ハイ、デス」
テレもせず、あたりまえのように返事した哲であった。やがて三人は改札の所で別れた。
「さよなら、おばさん」
「サヨナラ、デス」
「さようなら」
千佳は改札の奥で人ゴミの中に埋もれて小さくなっていった。そのうしろ姿を見送った志歩は、哲を見た。
「テッチャン、アタシも帰るね。バイバイ」
「ア!」
片手を振りあげようとした志歩は、哲が急にすっとんきょうな声をあげたので、びっくりした。
「な、何?」
「ワ、ワスレテマシタ、デス」
哲はたすき掛けにしているカバンから何かを取り出して志歩に渡した。一枚のビラで、ドール新装開店記念パーティー、という大きな見出しがあった。
「ドール……? あー、あの喫茶店か。たしか最近、店内改装工事中とかでしばらく休業中だったんでしょ。アタシ、何度か足を運んだことあったけど、休業中ばっかりでそれっきりになってしまったけど」
志歩はビラと哲を見くらべながら、
「テッチャンは、ドールのことを知ってたの?」
「ハイ、デス」
「そぉ……」
志歩はしばらくビラを読んだ。オープン前夜に関係者、知友を集めてパーティーを開く予定で、つまり、このビラは一般広告用のチラシとは別で、知人・友人だけの、言わば<案内兼招待状>であった。
ドールは喫茶店という店ながら、その営業はレストラン並で実に多忙をきわめた。マスターである南部豊は調理資格を有していたが、ひとりで調理することに限界を感じ、(時どき妻のゆかりも手伝うことはあるが)コックや料理人の募集を試みた。もちろん<身体障害者交流の場>であるから障害の有無は関係ない。皿洗いや注文聞きなら、ゆかりのほかに何人かバイトでやとっている。
応募する人は何人かいたが、その中に、南部豊が強く興味をひいた人物がいた。先祖代だいラーメン屋だった若き店主だった。しかも右腕は小児マヒのために使えず、左腕だけでラーメンをつくっていた。豊も時どきそのラーメン屋へ出向いたことがあるが、ラーメンの味もさることながら店の評判は悪くなかった。しかし、不況のせいであまりもうからず、いっそラーメン屋をたたもうかと思った矢先に、ドールの募集があった。
まさに渡りに船だった。南部豊はそのラーメン職人やふたりの料理人とともに、店内の改装を計画、今までのイメージをガラリとかえようと<喫茶&食堂>にしたのである。
その工事のためにしばらく休業、その工事期間もおえて、オープンする前に<身体障害者交流の場>としてのイベントをやろうというわけであった。
ビラを読みおえた志歩が言った。
「この日は春休み中だけど、テッチャン、アタシも行っていいの?」
「ハイ、デス。カァチャンモ、トモダチモ、ミンナ、コーコーウケルタメノベンキョー、オワリマシタ、デス。ダカラ、ソノ、オメデトー、スルタメニ、ミンナデ、タベタリ、ノンダリ、ウタッタリ、シマス、デス」
自分本位で、所どころ抜けていることも気づかずに哲はしゃべりまくった。それでも志歩は辛抱強く聞いた。
「うん、わかった。気が向いたら行ってみるね」
「ハイ、デス」
「それじゃーね。テッチャン、あまりブラブラしないで、まっすぐ帰るんだよ。わかった?」
「ハイ、ワカリマシタ、デス。サヨナラ、デス」
ふたりが別れようとした時のことだ。突然、駅内がさわがしくなった。プラットホームで人身事故が起こったらしい……
その夜――
「森さん、話がありますが……」
夕飯のあと、居間でテレビを見ながら酒を飲んでいる森和彦の所へ、北野がやって来た。夕子は台所のあと片づけをしている。
「ん、何だね」
北野はもじもじしながら、
「な、長い間、お世話になりました」
「……な、何だ、いきなり」
「おれ、ここに居候するのは冬の間だけのつもりでした。もう暖かくなってきたので、そろそろ出発しようかと思っています」
「そうか……」
森は何か考えながら酒を飲んでいた。
「君も
飲るか」
「あ、いや、結構です」
北野は片手で制した。
「いつ出発するのかね。それに、どこへ向かうつもりだね」
「ハァ、いつにするかはまだ決めてませんが、まずは東の方面へ向かって、暑い季節になったら北を目指します」
「うむ、そうか」
森はまた酒を飲む。
「どうせなら四月に出発したらどうかね。旅立ちの季節にふさわしいと思うがね」
「ハァ、そうですね」
「お、そうだ」
森は思い出したように、
「一度、ドールへ行ってみないか」
「え、ドール?」
そこへ、台所のあと片づけを済ませた夕子が居間に現れた。見ると、夕子の手には何かを持っていた。それを北野に渡した。例の案内兼招待状である。
「ぜひおいでよ。ドールが新しくなるし、マスターの親せきに受験生の女の子がいてね、ボツボツ合格の知らせも来るだろうから、そのお祝いも重ねて、みんなでさわぐんだよ。北野さんって普段おとなしいんだから、たまにはパァーッとやっちゃえばいいよ」
「ハァ」
北野はあまり気乗りしない様子だ。
「いろんな障害を持つ人がたくさん集まるよ。北野さんと気の合う人だって見つかるかも知れないよ」
「夕子の言う通りだ。現に私もドールのお世話になって以来、どんなにはげまされたことか」
森も酒を飲みながら言った。
と、その時、電話が鳴り出した。夕子が立って取った。
「ハイ、森です」
『あ、夕子さん? ドールのゆかりです』
「あ、こんばんわ」
『お宅に、風来坊さん、いるんでしょう。北野好美さんっておっしゃる方』
「ハイ、おりますけど」
『た、大変なことが起こったの。北野さんのお母さん、事故で病院へ運ばれたらしいの』
「え?!」
夕子はすぐ北野を見返した。
「北野さん、お母さんが……」
それを聞くと北野は少しビクッとしたが、無言のままだ。
「事故で病院へ運ばれたんですって」
「な……」
北野は実際おどろいた。からだもふるえ出す。が、あえて冷静に努めようとした。夕子は電話に向かった。
「もしもし、それでゆかりさん、病院はどちらへ?」
そのあと、ふたことみこと話して電話を切った夕子は、父の方を見た。
「お父さん、ゆかりさんがワゴンでこちらへ向かうって。それで、わたしと北野さんが病院へ行くけど、いいでしょ」
「ああ……」
森は北野を見やった。
「北野くん、出かける用意をするんだ。君の家庭にどんな事情があるか、私は知らない。だが、仮にも君の母親だ。病院へ行ってあげるんだ」
森の強い説得に、北野はうなずいた。
まもなく、ゆかりの運転するワゴンが、モリサイクルの前に来て停まった。夕子と北野が後部座席に乗り込むと、ワゴンは発進した。
夕子はひそかに北野の横顔を盗み見した。窓に流れる夜景を眺めているふうの横顔には、心配そうな様相がうかがえなかった。いや、顔には表さないだけのことで、内心は複雑だろう。
さっきのゆかりの電話によると、北野の母はプラットホームから落ちてケガをしたらしい。それだけしかわからない。ゆかりは、また聞きだから詳しくは知らないのだ。夕子は、もしかしたら北野好美の家庭事情をかいま見ることになるかも知れない、と思った。
やがて、ワゴンが病院に着いた。
つづく