DOLL/第七話
てぶくろの季節
三月の朝――
「いよいよ今日だな」
「うん」
「しっかりやれよ」
「わかってるって」
「忘れものはないか。受験票は持ったか。筆記用具はちゃんとそろえてるか」
「ちょっとウルサイよ。父さん。これじゃ、あたしがまるでテッチャンみたいじゃないの」
橋本香が第一志望とする<希望の丘高校>の入学試験の日がやってきたのだ。朝食をおえて玄関に向かう香を、父親が見送った。
「落ち着いて、しっかりやれよ」
「わかってるってば。行って来ます」
香は不機嫌なようだ。知的障害を持つ兄・哲を施設にあずけてまで必死に猛勉強した香であった。どちらかと言うとあまり優秀と言えない香は、親友である優等生の長瀬久美子の協力で勉強を続けていた。いよいよ本番だと言うのに、頭の中は何が何だか混乱しているようだ。それに昨夜は思いかけずに哲からの電話があった。
『イヨイヨ、アシタ、デスネ。ガ、ガンバッテクダサイ、デス。ゴーカク、イノッテマス、デス』
ただでさえイライラしているのに、哲のテンポのズレた口調でよけいにイライラが増してきた。
「うー、何が何だかまたわからなくなった」
単語帳を懸命に見ている香がつぶやいた。
「おはよう、香。何、さえない顔してんのよ」
久美子が声をかけて来た。
「いよいよ今日だよ。お互いがんばろうね」
「うん……」
「元気がないな。大丈夫。できるって自信持ちなよ」
久美子は手のひらで香の背中をたたいた。
いつもの通学コースではなく、今日は希望の丘高校へ行くためにバス停留所へ向かっていた。停留所には出勤中のサラリーマンやOL、現役高校生のほか、よその中学生も混じっていた。
バスに乗っている間にも、よその中学校からの受験生たちが乗り込んで来た。
「この人たちも希望の丘高校を受験するんだ。みんな、優秀そうだな」
香はだんだん不安になってきた。ため息をもらす。また、次の停留所から受験生たちが乗って来た。その中に見おぼえのある顔が見えた。久美子が手をあげる。
「おはよう。いよいよね。お互いがんばろう」
「おはよう。うん。でも橋本さん、何だか不安そう」
同じ中学校の野村明日香である。
「いいなぁ。久美も野村さんも頭がよくて……」
香はまたため息をもらした。久美子と明日香は互いの顔を見ただけで何も言わなかった。
野村明日香は、ゆうべ父親の病院へ行った。姉の今日子もそこにいた。
「いよいよ、明日だな。合格祈ってるよ」
「うん、ありがとう。だからパパも早く歩けるようになってね。あたし、高校生になったら毎日お見舞いに来たげるから」
「あぁ……」
「あっちゃん、落ち着いて、しっかりね」
「大丈夫だよ。あたし、きょんちゃんの妹だから」
「ど、どういう意味よ」
「へへへ、別に悪い意味じゃないよ」
「うーん、わたしの妹だからこそ、よけい心配かも」
「あー言ったな」
笑いが絶えない父娘、姉妹だった。
「パパ、きょんちゃん、あたし、絶対合格するから……」
そんな思いで受験にのぞむ明日香であった。
長瀬久美子は複雑な心境だった。自分の両手にはめている赤い手袋を見つめている。親指と四本の指をわけたもので、手の甲にピンクのハートの形があった。
「おばあちゃん……」
久美子は心の中で呼んだ。第三話を思い出してみると、久美子は赤が嫌いではなかったか。赤は女の子のもっとも好む色のひとつだ。久美子の服装やカバンのどこをさがしても赤の色は見つからない。だからこそ手袋だけが赤というのが妙に印象深い。
成長することへの嫌悪感から何とか大人になろうと、少しずつその認識を受け入れようと、人知れず努力していたのだ。去年の十二月、母方の祖母と衝突があって以来、久美子はひそかに<ひだまりの村>老人ホームへ通っていた。通っていた、と言うから一度や二度だけではない。ましてやテッチャンこと橋本哲に会うためでもない。もちろん受験勉強をおろそかにしたわけではない。
大人になることへの抵抗をうちやぶろうとする<自己の闘い>のためだった。人間が成長したあげくの果てが<老人>ならその現実を見つめ、自分の未来を重ね合わせながら、徐じょにではあるが、その結果、ひとりのおばあちゃんと話せるようになった。もう、あの嫌悪感はなく、昔大好きだった父方の祖母をなつかしむように、久美子はそのおばあちゃんと打ち解けるようになった。一週間に一度、老人ホームへ通っておばあちゃんの話し相手になってあげることが、久美子なりのボランティアだった。
沢田絹代……子供もなく、身寄りもなく、細ぼそとひとり暮らしで清掃員やアルバイト、パートで働いていた。そして老齢に達したため、ひだまりの村・老人ホームへ入居して五年近く経った。元来、内気な性格のため、ひとりでいることが多く、陽気なほかの老人たちの和に入ってゆける勇気もなかった。たったひとつの趣味と言えば編みものだった。マフラー、手袋、帽子、セーターなど、その作品の評判はよかった。できあがると惜しげもなく人にあげた。また、編みもの教室の作品展に出品したり、模範とされたりして、その存在は重宝されていた。
時どき、老人ホームへの慰問で訪れてくれる小学生たち、あるいは中学生たちのボランティアは嬉しいことは嬉しいのだが、やはり<家族>以上の感情を抱くことはできなかった。話し相手になってはくれるのだが、心のどこかに空虚があって<楽しい>よりも<空しい>という感情が大きかった。
そんな時、長瀬久美子と知り合って以来、絹代はなぜか生き生きしていた。ふだん思っていることも久美子に対してだけは話しやすいようだ。
「最近の女子高生って、昔とだいぶちがうわね」
「どんなふうにちがうの?」
「そうね。近ごろの女の子、冬の最中だと言うのに、短いスカートでしょ。あのダブダブの靴下をはいてる子は多いけど、それも素足でしょ。どうしてストッキングとかタイツをはかないのかしら」
「ダブダブってルーズソックスのことでしょ。ストッキングとかタイツなんて、多分誰もはかないからだと思う」
「久美ちゃん、あなたもこの春から高校生だけど、まさかあなたも同じような格好にするつもりなの?」
久美子は考えるように首をひねった。
「うーん、わからないけど、多分そうなるんじゃないかな」
「わからないって、そうなるんじゃないかなって、久美ちゃん、自分のからだでしょ。おしゃれも大事だけど、やっぱり健康がいちばん大事ですよ」
絹代は力説した。
「こんなに物があふれる世の中なのに、最近の学生の感覚はいったいどうなってしまったの。まるでわたしたちの時代よりもっと貧相のように思えてならないわ」
わたしたちの時代という言葉自体が久美子の心情を重くした。
「おせっかいな老婆心でしょうけれど、もっと自分を大切に、暖かい格好で通学できないのかしらって思うの。これって、やっぱり勇気がいるのかしらね」
「そ、そうだよね」
久美子はやっとの思いで言った。
「たしかに最近の学生って同じような格好が目立つけど、ほんの勇気を出せばいいんだよね。自分は自分だって」
絹代はうなずいた。
「久美ちゃん、毎週来てくれるのは嬉しいけど、そろそろ、というよりは受験勉強に本腰入れなくちゃいけないんじゃない?」
「うん。おばあちゃん、さびしくなるだろうけど、でも高校生になったら毎日でも来てあげるよ」
「ありがとう」
絹代は編みものカゴから何かを取り出して久美子に手渡した。赤い手袋だった。最初、久美子はちゅうちょした。久美子が赤の色を毛嫌いしている事情などつゆ知らない絹代ははげました。
「まだまだ寒い日は続くから手がかじかんでは鉛筆も持てないし、字も上手に書けないでしょう。どうか合格になりますように、と祈りながら編んだのよ。これ、わたしの感謝の気持ち。あなたにぜひ合格してもらいたいから」
「お、おばあちゃん」
久美子の胸中は震えた。赤の色が嫌いだなんて言ってられない。おばあちゃんの<真心>をこわしてはならないのだ。ここはガマンするしかない。そう思いながら久美子は赤い手袋を両手にはめてみた。毛糸が包む肌触り、まるで長い人生の喜怒哀楽がにじんでくるようでもあり、また人間としてのぬくもりが感じられた。
「あったかい……」
そうつぶやいた久美子の顔を見て、絹代はおどろいた。
「く、久美ちゃん?」
久美子の両の目からひと筋流れるものがあったのだ。赤い手袋の両手を胸に抱くような姿勢で久美子は頭をさげた。
「ありがとう。わたし、絶対合格するようがんばります」
こうして、受験にのぞむ久美子であった。
『次は希望の丘高校。希望の丘高校。お降りの方はボタンをお押しくださいませ。次は希望の丘高校』
ワンマンバスの車内アナウンスが流れてきた。受験生たちの誰かが押したのだろう、<おります>の赤いボタンが点いた。
「いよいよだ」
香は緊張した。次つぎと降りていく受験生に流されるように、香も久美子も明日香もバスを降りた。<希望の丘高校入学試験場>という大きな看板が校門に立ててあった。三人は互いの顔を見やった。
「がんばるぞぉ」「ファイト」「オー」
この日は天気が好かった。太陽が高くなるに連れ、気温もあがって暖かくなる。
ひだまりの村・老人ホームでは沢田絹代は、自室で窓の外を眺めていた。何か思案しているふうだ。庭には桜の並木があって、花はまだつぼみのままだった。これから開花となり、満開となって桜吹雪となるだろう。
ふと何か思いついたらしく、絹代は押し入れから小さな段ボール箱を出した。見ると封がしてあった。開けるべきか、いや、やっぱりこのままにしてやろうか。絹代の目にはそんな迷いが見られた。何分かのち、思い切って封を切った。中から出てきたのは紫色のふろしき包みだった。それを座卓の上に置いた。
包みを解くと、位牌と写真立てが出てきた。写真立てにはかわいい少女が写っていた。中学生だろうか。どこか、長瀬久美子と雰囲気が似ていた。それらを座卓に並べると、絹代は合掌した。
「久美……」
写真立ての少女を見つめる絹代の目には涙がにじんでいた。
「あれからもう何年経ったのかしら。今日ね、あなたの名前に似た女の子が受験しているのよ。どうか、久美ちゃんを見守ってあげてね。わたし、久美ちゃんのこと、もしかしたらあなたとダブっていたのかも知れないわね。未練たらしいと思うでしょうね」
沢田絹代には老人ホームの誰にも打ち明けてない過去の秘密があったらしい。
絹代は洋服ダンスのひきだしから便せんを出し、書き始めた。長い手紙だった。やっと書きおえると封をした。ちょうどそこへノックがあった。
「絹代さん、そろそろお昼ですよ」
田中梅子だった。
「ハイ」
絹代は立ちあがったせつな、腹に痛みをおぼえ、倒れてしまった。おどろいた梅子が駆け寄る。
「き、絹代さん?!」
太陽が西に傾きかけようとする頃、希望の丘高校の入試がおわった。会場を出る受験生たちは芋を洗うがのごとくだった。その中に例の三人の姿も見えた。やっとおわったという解放感にひたっている久美子と明日香とはよそに、香の気は晴れなかった。
「香、どしたん」
「ダメだった。全然できなかった」
「一生懸命勉強したんでしょ。自信持ちなって」
「うん……」
香を何とかはげます久美子に、明日香が声をかけた。
「長瀬さん、あたし先に帰るからここで失礼するね」
「そぉ? それじゃ、おつかれさま」
「うん。おつかれさま」
明日香は片手を振って離れた。
「香、テッチャンを迎えに行くんでしょ」
「うん。春休みの頃になると思う」
「あら、今すぐじゃないの?」
「うん」
「じゃ、ひだまりの村へは行かないの?」
「何だかあたし、そんな気分じゃないもの」
香はまたため息をもらした。試験中、問題をよく読み返し、解答用紙にこたえを記入していたが、時間が経つのが早く、気があせるばかりで果して正解かどうか自信がなかった。元来、自己嫌悪の激しい香であった。
「じゃあ、わたしだけ行って来ていい?」
「テッチャンに会うの?」
久美子はなぜか言葉をにごした。親友にさえ打ち明けてないのだ。沢田絹代のことを……
「どんな用事か知らないけど、テッチャンに会えたらよろしく言っといてよ」
「うん、わかった」
ふたりは片手を振り合って別れた。去年の十二月、サイクリングで行ったことのあるひだまりの村は希望の丘高校の近くの地域にあり、バスではふたつめの停留所にあった。ひだまりの村という停留所に降りると、すぐそこがひだまりの村だった。
久美子はいつものように村長室に声をかけようとしたが、留守だった。そこでバッタリ出会ったのが、ボランティアの森夕子だった。久美子はあいさつをした。
「こんにちわ」
「あ、久美ちゃん、絹代さんのことはまだ聞いてなかったのね」
「え、絹代さん? 何のことですか」
言っていいものかどうか、夕子は迷っていた。
「ちょっと待ってね。電話するから」
夕子は廊下にある赤電話を取った。ただごとじゃないと気づいた久美子は近づいて訊いた。
「絹代さんに、おばあちゃんに何かあったんですか」
相手につながった夕子は電話を久美子に渡した。
「梅子さんから」
久美子は胸中に不安をおぼえながら電話を耳にあてた。病院のナースステーションからのようだ。
『もしもし久美ちゃん? 気を落ち着けて、しっかり聞いてちょうだい。絹代さんね、倒れたのよ』
「え、おばあちゃんが?!」
『ええ、それでね、今D大学病院に入院してるの。D大学病院、わかる?』
「D大学病院ですね。ええ、わかります。それで、おばあちゃん、どんな具合なんですか」
『と、とにかく久美ちゃん、来れるのなら来てちょうだい。じゃ、あとでね』
電話が切られると久美子は駆け出した。施設を出ると、ちょうどそこのバス停留所にはD大学病院の方面へ向かうバスがとまるところだった。夢中で飛び乗る。
「おばあちゃん……」
バスはノロノロしているようで、久美子をイライラさせた。やっと病院前という停留所に着くのにあれこれ三十分かかった。料金を払って脱兎のごとく走り出した。受付で問い合わせてからもまた一気に走り出す。二階への階段を駆けのぼり、沢田絹代の病室にあっという間に着いた。ノックすると中から返事があった。久美子は深呼吸してドアを開けた。
「あ、久美ちゃん」
田中梅子だった。ほかに看護婦がひとりいた。脈を計ったり、点滴を調節したりしている。久美子はベッドのわきへ寄った。絹代は眠っていた。
「おばあちゃん」
久美子がちょっと呼びかけてみると、絹代はすぐ目をさました。こんなにすぐ反応があるとは思ってもみなかった久美子を見て、絹代はほほ笑んだ。
「久美ちゃん、どうだった。入試はよくできて?」
「う、うん……」
久美子はベソをかきそうだった。
「そぉ。それじゃ合格できそうね。久美ちゃん、泣かないで。あなたは心の優しい女の子だから高校に行っても、きっとみんなに好かれるわよ。こんなわたしと仲好しになれたのも、あなたのお人柄のおかげ……」
話し疲れたのか、絹代は息を継いだ。
「おばあちゃん、ムリしないでゆっくりやすんで」
それを聞くと安心したように絹代は眠りに入った。その寝顔がもう二度と目覚めることなく、永遠に続くのではないかと久美子は不安に駆られた。
「梅子さん、絹代さんは何の病気ですか」
梅子は絹代の寝顔を気にしながら久美子を病室の外へ連れ出した。廊下にはベンチがあって、ふたりは腰をかけた。
「久美ちゃん、気持ちを落ち着けてね。いい?」
「ハイ……」
「絹代さんはね、子宮ガンらしいの」
久美子の目が大きくなった。
「まだ検査中だけど、どうもそうらしいの」
「し、子宮ガンと言えば、日本では死亡率が高いとか」
「よくわからないけど、女性では胃ガンについで第二位の死亡率らしいの」
「そんな……」
「絹代さん、覚悟してたみたい。ずっと前から自分のからだのことをよく知ってて、久美ちゃん、あなたにお手紙を書いたのよ」
「え、お手紙?」
梅子はふところから封筒を出した。
「救急車に乗っている間中、このお手紙を握りしめてたの。それを久美ちゃんに渡してくださいってあずけたの」
そう言いながら梅子は封筒を久美子に渡した。見ると梅子は泣きぬれていたようだった。頭をさげながら受け取った久美子は表書きを見やった。長瀬久美子さま、とよく整った字で書かれてあった。
と、その時だ。病室の中からうめき声のようなものが聞こえた。ハッとしたふたりは中へ入った。絹代はからだを折り曲げるようにして腹をおさえている。激しい腹痛だ。見ると、足や腰のまわりには赤い血と白帯下があふれていた。
「お、おばあちゃん?!」
早速、看護婦が担当医を呼びに飛び出した。まもなく四十代の医師と二、三人の看護婦が応急手当てをした。
「今すぐ手術の用意を」
それから沢田絹代は手術室へ運ばれた。手術中、という表示がついた時、梅子も久美子も祈るような気持ちでたたずんだ。
子宮ガン……かなり進行すると、不正出血が起こり、大出血になったり、また、悪臭のこしけの量も多くなる。下腹痛、頻尿、血尿などの症状が次つぎに起こり、しまいにはガンのためにからだが衰弱するという悪液質になってしまう。この状態になった時、ガンがからだのあちこちに転移し、生命を救うのはもはやむずかしくなるのだ。
進行度がひどければ手術はしないで最初から放射線療法を行ない、病状によっては放射線照射のあと、手術可能ということもある。ほかに抗ガン剤や免疫療法の併用も行われることもあり、手術後は定期的に医師の診断で経過を観察し、そして五年間ガンの再発がなければ、完全に治癒したと判定されるという。
だが沢田絹代の場合は、閉経後の五十代以降の婦人に多く発生している子宮体ガンで、かなり進行していた。手術は困難をきわめた。
どのくらい時間は経ったのだろう。外はすっかり暗くなっていた。手術室の前、ベンチに座っている梅子も久美子も落ち着かなかった。久美子はよっぽど手紙を読もうかと思ったが、やはり今は手術の結果が気になるのだ。
ふと、手術中の表示が消えた。ハッとしたふたりは一気に立って手術室のドアを見つめた。ドアが開かれ、出て来たのは沈痛な面持ちの医師だった。その表情を見て、久美子はもしやという思いが頭をかすめた。梅子が詰め寄る。
「先生、絹代さんは?」
医師は静かに首を横に振った。
「残念ながら……」
「え、そんな!」
信じられないふうの梅子はすぐ手術室へ駆け出した。そのあとを、医師に頭をさげながら久美子が追った。
手術台の上に絹代は横たわっていた。生前とかわらない寝顔だった。それを見つめながら久美子はゆっくり近づいた。くちびるが震えている。
「う、嘘、嘘だよね。おばあちゃん……こんなことって嘘だよね。おばあちゃん、何とか言ってよ。嘘だって。またもと通りに元気になるって。約束したでしょ。わたし、高校生になったら今まで以上もっともっとおばあちゃんと話ができるのに。もっともっと昔のことや編みもの、お歌、歴史のこともいっぱいいっぱい聞きたいのに。おばあちゃん!」
次第に落ち着きを失って、久美子は手術台に泣き伏した。そのうしろで梅子も泣いていた。
長瀬久美子さま――
今まで黙っていてごめんなさい。あなたを見ていると、昔亡くなった娘の久美とダブってしまって、とうとう言いそびれてしまいました。
あれは何年前のことだったかしら。たぶんあなたがお生まれになる前のことだから、およそ二十年前でしょう。その頃のわたしは主人と娘がいてごくふつうの主婦でした。娘の久美はちょうど今のあなたと同じ中学三年生でした。もちろんそれなりに受験勉強にはげみました。
そんな時、不幸なことが起こったのです。娘の久美が急性白血病におかされていたのです。二十年前の当時、骨髄移植のことやドナーのことなどはまだ一般的ではなかったので、なおる見込みが薄いと聞かされた時のわたしのおどろき、悲しみ、苦しみ……
それでも娘は明るい笑顔をわたしたちにふりまいてくれたのです。お見舞いに訪れてくれるお友だちや先生方に対しても、娘はなるべく明るくなろうとしたのです。内心はとってもこわくて、とっても悲しいにちがいなかったでしょうに、あの子は決して<希望の灯>を消しませんでした。いいえ、消すまいと必死に努力したのでしょう。
あの子は病院の無菌室で静かに息をひきとりました。最期の最期まで、笑顔を絶やさずに……
わたしはあの子が生きがいでした。あの子を失って、わたしはどう生きればいいのでしょう。どうやったらこの悲しみを忘れることができるのでしょう。誰も教えてくれませんでした。
わたしは死のうとさえ考えました。でも主人をこれ以上悲しませてはいけないと思い止どまりました。その主人は八年前、胃ガンで亡くなりました。これでわたしも死のうと決心しました。でも娘も主人も病気で死んだのに、わたしだけ自殺なんて、それこそ娘や主人に笑われもすれ、軽蔑もされるでしょう。だからわたしもまっとうしようと生きることにしたのです。
そして、久しぶりに検診を受けたら、子宮ガンのうたがいがあることを聞きました。それでもいいと思いました。これでやっと娘や主人のもとへ行けるのです。こわくないと言えば嘘になるけど、ずいぶん長い間<家族>を待たせていたのだから、あの世で三人幸福に暮らせたら、これ以上の幸福はありません。
久美子さん、あなたに出会えて本当によかったと思います。こんなおばあちゃんの話し相手になっていただいたおかげで、わたしはまるで本当の娘と再会したような気持ちでした。ありがとう。合格お祈りしています。
もしかしたらあなたの高校生としての姿を見ることもないかも知れません。また仮に長生きできたとしても、あなたの成人姿を見ることはないかも知れません。でもわたしは信じています。あなたが合格するということ、信じてやみません。
わたしが死んだら、あなたは悲しむかしら。でも、この悲しみを乗り越えて立派に生きてくださいね。
さようなら。沢田絹代より――
桜が満開になる頃、中学校の卒業式があった。翌日、希望の丘高校へ合格発表を見に行った。発表が貼られている掲示板の前には、たくさんの学生が群がっていた。橋本香は神に祈るように、両手を組み合わせた。
「どうか、合格になってますように」
ドキドキしながら自分の番号を目でさがすと……
「あった!」
香がすっとんきょうな声を出した。
「あったよ。久美、野村さん」
野村明日香はうなずきながらVサインを出した。
「よかったね。あたしもあったよ」
ふたりはすぐ久美子を見やった。当然久美子も受かっているとばかり思ったふたりだったが、久美子の様子は少しちがった。
「久美、まさか、なかったの? 久美の番号が……」
おずおず尋ねる香の声を聞き流して、久美子は深くため息をもらした。
「な、長瀬さん、本当になかったの、まさか……?」
明日香も声をかけた。久美子は悩ましげな顔をふたりに向けた。するとその顔がニコッと笑ったのだ。
「なーんてね。ちゃーんとわたしも受かってたよ」
あっけらかんに笑い出した久美子に、ふたりはポカンとした。
「あーひどい。マジに心配したんだから」
「ごめんごめん」
怒ったフリの香に、久美子は両手を合わせた。その両手には赤い手袋がはめられていた。沢田絹代の形見だった。寒い季節は過ぎ、素手でも暖かくなったのだが、合格したことを報告する意味で、はめていたのだ。
久美子は桜の木と空を眺めた。赤い手袋を振りながら……
「おばあちゃん、わたし合格しました。お空のどこかで見ていますか」
雲の形が絹代の顔のように見えた。また、そばに寄りそっているような雲ふたつは、主人と娘なのかも知れなかった。