『こどもの日』スペシャル2007
DREAM&HOPE/まにいぬの犬小屋+新誠の書斎/DOLL
合作企画
スーパーテッチャマン
(一)
「イッテキマス、デス」
澄み渡った青空の下、一軒の家から出掛けようとする少年の姿があった。いや、少年というよりは二十歳前であるから青年と言ったほうがいいかも知れないが、その容姿、行動などから見てまだ幼さが残っていて、童顔でもあるので、少年でもあるような、青年でもあるような、あいまいな外見であった。その外見からは判断できないが、軽い知的障害があった。その名を、橋本哲と言った。Y市にある『ひだまりの村』授産所へ通っている。
「テッチャン、気をつけて歩くんだよ」
「ハイ、デス。カァチャン」
哲に声をかける者があったが、母親というような年配ではない。まだ女子高生だ。哲の妹で、橋本香である。以前はカオリチャンと呼んでいたのだが、いつしかカオチャンと略され、次第にカァチャンと、母親とまちがわれそうな、いい加減な呼びかたになっていた。
哲と香の母親はすでに亡くなり、父親と三人暮らしである。母親が亡くなったのは香がまだ小学生のときで、以後、小学生ながら妻代わり、母代わり、そして妹ならず、姉代わりとして現在も家事にがんばっていた。もちろん勉学もがんばる活発な女の子だ。
通学や通勤で慌しい朝だった。哲と香はバス停留所に着いた。授産所と高校へ向かう路線が同じで、一緒に乗り込み、途中、高校前停留所で香が降り、そこから哲がひとりで授産所へ向かうのが日常だった。
「じゃあテッチャン、くれぐれも迷惑をかけたり、ヘマしたりしないでね」
「ハイ、デス」
バスが高校前停留所に着く頃、香は哲に声をかけた。兄と妹なのであるが、何も知らない他人から見れば、まるで姉と弟のようだ。停車したバスを降り、校門へ向かって歩く香の姿を窓から見送った哲は、妹の姿が見えなくなるまで、吊革につかまったままの格好で、窓の外を眺めていた。
そのときだった――
エンジンの鈍い振動感を漂わせながら走行していたバスが、大きく揺れると同時に乗客たちは倒れそうになり、客席にいた人たちも体の安定さを欠いた。かと思うと、次の瞬間、大きな音ともにバスが転がり、車内の誰もが床や壁、あるいは天井にたたきつけられた。
交通事故だ。
徹夜で走行していたトラックが運転手の居眠りによって反対車線に蛇行したために、バスと正面衝突したのだ。
「テッチャン!」
バスを降りてまだ数分しか経ってないのに、この急な展開に、香は校門に着かない前から現場へ駆け出した。その顔は蒼白だ。と、いきなりバスが炎上した。
「テッチャーン!」
炎を見つめながらどうすることもできない香の周囲に、警察や消防隊などが急行して来た。それほどの騒然でも、香には何の音も耳に入らず、感覚だけがまるで別世界にいるような錯覚に陥っていた。
(二)
「……ここは」
ひとりの青年の意識が目覚めた。横たわっていた体をゆっくり起こしながら立ちあがった。あたりを見まわすと闇一色だ。
「ここはいったいどこだ。それに」
青年は自己というものを思い出そうとした。
「バカな。僕は誰なんだ。お、思い出せん!」
青年は自らの頭を抱え込んだ。気がつけば裸に近い格好だ。
「僕は今まで何をしていたんだ。それすらも思い出せない。もしや記憶喪失というのか」
暑くも寒くもない空間だが、青年の体は恐ろしさのために震えていた。自分という理解できない存在に対する恐怖だった。
「お目覚めでございますか」
不意に耳慣れぬ声が聞こえたので、青年は驚きとともに、周囲を見まわした。闇一色の空間の中、だんだん眼が慣れてくると、うっすらと声の存在を認めることができた。見ると、古い日本人形だ。
「だ、誰」
青年の怯えたような誰何に対して、日本人形は穏やかな口調で応えた。
「わらわはお菊と申します。古来三百年生きる日本人形でございます」
「さ、三百年、日本人形?」
常識とはかけ離れた世界観になってしまったので、青年の頭は混乱した。
「僕は夢でも見てるのか」
「そのように思うてもよろしゅうございます。ここは自然の法理とはまた別な意味の、世界でございます」
理解不可能という表情の青年に対して、お菊はさらに説明を続けた。
「ある人は異次元空間とも呼び、またある人は黄泉(よみ)の国へ通じる空間とも呼びます。あるいは、意識の世界、また、意識の空間とも呼ばれてございます」
「意識の、世界……」
青年は我に返って質問した。
「ところで、僕は誰なんですか。お菊さんはご存知じゃないですか」
「あなたは魂の危険を感じましたゆえ、ここで意識を呼び戻したのでございます」
「すると、僕はもう死んでいると?」
「死んではございません。魂の危険は、まもなく峠を越してございましょう。あなたの存在は眠っている状態でございました。魂の危険を感じたからゆえ、目覚めたわけでございます」
まだ理解不可能な青年は、何か言おうとしたが、噤んだ。お菊は青年の正体を告げた。
「あなたは橋本哲さんのもうひとつの<人格>でございます。知的障害を持っておられる哲さんの脳の中に潜む、本当の意識、人格、それがあなたでございます」
「僕が橋本哲の本当の姿……」
そう呟きながら青年は茫然していた。
(三)
Y市立総合病院――
昏睡状態にあった橋本哲が眼を開けたのは事故があった二日後の午前中だった。白い天井を見つめ、いくつかのベッドにそれぞれ横たわる患者、医師や看護師たちの動きまわる姿、そして自分の体に点滴があるのを確認した。
「あ、起きたのね。気分はいかが」
若い女性看護師が近づいた。
「ココ、ドコデスカ」
「病院ですよ。今、ご家族の方に連絡しますから、待っててくださいね」
それから午後になって、学校が終わった橋本香が病院へ来たのは四時すぎだった。
「ア、カァチャン、デス」
「もぉ、テッチャン。心配したよ。二日前の事故のとき、あたし、生きた心地がしなかったんだから」
「ゴ、ゴメンナサイ、デス」
「でも、よかった。あんなに炎が噴き上げたのに、バスの中にいた人たち、ケガだけで、死人はひとりも出なかったんだって」
「ソ、ソーデスカ」
運転手、常客含めて約三十人が重軽傷を負ったバスと、居眠り運転手のトラックの衝突事故は新聞に大きく載った。マスコミでも奇跡の生還だと言われた。
「じゃ、あたし帰るね。テッチャン、病院でも人に迷惑をかけちゃダメだよ。とくにお医者さんや看護師さんの言うことはキチンと守るんだよ。わかった?」
「ハイ、ワカリマシタ、デス」
哲の病室で一時間ほどいた香は、暇を告げる頃になって病室を出た。白い廊下を歩いていると、わずかに開いていたドアの隙間から、頭や手などに包帯を巻いた痛いたしい少女の姿を発見した。同じ事故の重傷者なのだが、未だに昏睡状態だ。表札を見ると、柏田(かしわだ)あやめ、と書かれている。
あのとき、同じバスに乗っていて、同じ高校の制服を着ていたから、同じ高校の生徒だと思ったのに、高校前停留所へ降りなかった。そのあと、あの事故があったので、うかつにも忘れていた。もし、高校前停留場へ降りていたら、柏田あやめは事故に巻き込まれずに済んだだろう。ひとつの小さなわかれめが、運命を大きく左右することになろうとは、身震いせずにいられない香だった。
(四)
夜中――
寝静まった病院内を夜勤の看護師が見まわりをしていた。そのあとを、別の影が追っている。つかず離れずの状態で、怪しげな雰囲気だ。見ると、白衣を着ているから医師だろうか。この怪しげな医師が、柏田あやめの病室の前に来ると、周囲を警戒しながらドアを静かに開け、暗い室内へ入った。
ベッドには相かわらず、昏睡状態の少女が横たわっている。医師の視線が心臓の動きを示す機械のほうへ向いた。同じ大きさの波線が繰り返している。まだ生きている証拠だ。医師の右手がその機械のスイッチのほうへ泳いだ。親指がONからOFFへ一気に切り換えようとする。
そのとき、室内が明るくなった。照明が点いたのだ。驚いてあわてふためく医師、いやニセ者はドアのところにひとつの存在を発見した。まだ中学生のような少年だ。
「チッ、キサマか」
舌打ちしたニセ者は手術用のメスを取り出した。少年が制止するような口調で、
「やめるんだ。現世で闘っては無意味だ」
「きいたふうなことをぬかすな」
メスを振りかざしたニセ者はメスを一気に投げる。とっさに横へ飛んだ少年のうしろの壁にメスが突き刺さる。それを見届けた少年はすぐニセ者のほうへ眼を走らせる。が、ニセ者の姿はいつの間にか消え失せていた。
少年は改めて、柏田あやめの安全を確認してから、消灯して静かに室外へ出た。どこか野性的な風貌で、瞳の奥に獣のような眼光があった。ふと、少年の口から鳴声が聞こえた。
「……まに」
周囲一面闇の世界の中、静かに歩いている存在があった。見ると犬だ。鼻先を地面に近づけながら何かを捜すように歩いている。やがてひとつの気配を感じ取ると吠えた。
「まに」
その声に応えるように現れたのはお菊だった。
「やはりお菊さんが懸念した通り、あの子を狙う存在がありました」
「さようでございますか。いくら呼びかけても意識が応えてくださらないので、もしや、と思いました。まにいぬさん、くれぐれもお願い申しあげます」
「心得ております」
(五)
ずっと昏睡状態だった柏田あやめが眼を覚ましたのは、事故発生から一週間後だった。目覚めたとき、今の状況を把握できなかった。駆けつけた両親を見ても人ちがいだと思い、「あやめ」と呼ばれても自分のことだとは思わなかった。何かちがうと思うのだが、何がどうちがうのか、わからなかった。
自分の体に対する違和感と、じっくり来ない家族との対応など、あやめの様子から見て、医師から記憶喪失の疑いがあると告げられた。そう言われてみれば、あの事故が起こる以前のことは何ひとつ覚えていなかった。
柏田あやめ、これが本当にわたしなのだろうか……
自問自答に悩みながら入院生活を送っていたあやめは、暗く沈みがちな気持ちのまま、一日を何となく過ごすばかりだった。そんな彼女でも、ひとつの救いがあった。同じ事故の負傷者、橋本哲との出会いだった。その存在だけでつい笑顔になってしまう、癒し系キャラ的な雰囲気のために、彼女の心は少しずつ晴れつつあった。
気分がいいので、ふたりは病院の庭を散歩してみたくなった。病院の周囲の建物には鯉のぼりが並んでいた。
「コイノボリガ、イッパイデス」
「もうすぐ、こどもの日だからね」
「コドモノヒッテ、ナニスル、デスカ」
「え〜とね、子供の人格を尊重して、子供たちの幸福とか成長とか願ったり祝ったりする日なの」
「ソ、ソーデスカ」
「テッチャン、失礼だけど、テッチャンは自分のことを子どもだと思う、それとも大人だと思う?」
「ワカリマセン、デス」
「微妙な年齢よね。はたち前なんて」
「カァチャンは、イツマデモ、ボクノコト、コドモアツカイ、です」
「そりゃあ、お母さんにとっての子供だからね」
「お母さん、デワアリマセン。カァチャン、デス」
「え?」
妹だと言えばいいのだが、そこまで哲の頭はまわらないらしい。ふたりが散歩しているところに、花壇があった。色とりどりの花がたくさん咲いていた。赤や白や黄色、紫のもあって、綺麗だった。
「アレ、ムラサキノハナ、ナントイウナマエ、デスカ」
「あれは、あやめ、だと思う」
「アヤメ、デスカ。あやめちゃんとオナジ、ナマエデスネ」
「そう言えばそうだね」
まだ自分の名前が柏田あやめだとはどうしても思えなかった。
「テッチャン、そろそろ病院へ戻ろうか」
「ハイ、デス」
ふたりそろって病院へ戻って行くのを、遠くから見届けている存在があった。いつかの晩、ニセもの医師からあやめを救った謎の少年だった。
(六)
異次元空間――
「わらわが最初捕らえた意識と、今のあやめさん、あるいはあやめさんらしき女子(おなご)の意識とは、かなりちがうように感じてございます」
「つまり、事故に遭う前の少女とは別人だと言うんですか」
「わかりませぬ。もしかすれば、事故のために眠っていた別の意識が目覚めているのかも知れませぬ」
「別の意識……」
「現代の言いかたで言えば、二重人格、あるいは多重人格でございましょうか」
少し驚いたまにいぬは、それによって自分の考えを整理するように、
「人格が交替する。科学的、医学的に言えば精神的な病気、あるいは障害がある。または脳の中にいくつか未知なる部分があって、それが別の人格を生み出すのだと言う。それらとは別に心霊現象的に考えれば、何者かの憑依(ひょうい)、とは考えられませんか」
「なかなか鋭くなりましてございますね。まにいぬさん」
「しかし、邪悪な念は感じられない」
自分の言葉に矛盾を悟ったまにいぬは撤回した。
「あの事故に遭ったバスの中にいたのは何人でございますか」
「およそ三十人くらい」
「その中の誰かの意識と体がバラバラになったかも知れませぬ」
「意識と体がバラバラになる?」
「バスが横転することによって、体の安定が失われるとともに、意識が吹き飛んでしまってございます」
「意識が吹き飛ぶ?」
「つまり、意識消失、記憶消失でございます」
「………」
「浮遊した意識たちが自分の<容れもの>である体を求めて彷徨ってございますが、吹き飛んだ意識の一部が落下することもございます。落下した記憶を拾うことも、また見つけることもできないまま、還ってしまうのでございます」
「つまり、記憶の一部が欠陥してしまう、と?」
「さようでございます」
「それが、柏田あやめの問題なんですね」
「それはわかりませぬ。なぜなら、もとの意識と今の意識がかみ合っていないところが、納得できませぬゆえ」
「記憶喪失じゃないですか。単なる」
「それだとよいのでございますが……」
お菊は未だに納得できないようだった。
(七)
橋本哲が退院したのは事故から十日後だった。病院の玄関で医師や看護師、同じ病室の患者たちから退院祝いの花束を贈られた。迎えに来た妹の香と父親の車に乗り込む前に、哲は外を眺めまわした。お別れに来てくれている人たちの中、ひとりだけを捜していた。見つけると呼び上げた。
「あやめちゃん、デス!」
すぐ車から離れた哲はあやめの所へ走った。一瞬驚いた香が呼び止める。
「テッチャン、どこ行くの!」
哲が向かう先に、片手をあげて振っている柏田あやめの姿があった。
「あやめちゃんも、ハヤクヨクナッテ、タイインシテ、クダサイ、デス」
「ありがとう。テッチャン、退院おめでとう」
「ハイ、デス」
あやめは一本の花を差し出した。
「ア、アヤメ、デス」
「何もあげるものがなくて、ごめんね」
「アリガトウゴザイマス、デス」
「じゃ、元気でね。ほら、家族の人たち、待ってるよ」
「ハイ、デス。あやめちゃんも、ゲンキニナッテクダサイ、デス」
「うん」
哲は一本の花を手に持ったまま、あやめから離れて、香や父の待つ車のほうへ戻った。それを見送っていたあやめは、寂しい表情になり、泣き出してしまいそうな自分を堪え切れずに、どこかへ走り去った。
「テッチャン、さっきの女の子、同じバスに乗ってた子でしょ」
しばらく経ってから、哲と並んで後部座席にいた香が聞いた。
「ハイ、デス」
「もう仲好しになったんだね。あたしと同じ学校の生徒だから、そのうちお見舞いに行こうかな」
「ソ、ソーデスカ」
「名前、何と言うの」
「あやめちゃん、デス」
「あやめ? あー、その花、アヤメなんだ」
「ハイ、デス。オナジナマエ、デス」
「ふーん」
(八)
橋本哲が退院した翌日、いつも話し相手になってくれたテッチャンがいなくなって、あやめは寂しい思いをしていた。いつもなら「コンニチワ、デス」とテンポのズレたあいさつの声も空耳になりそうだ。
「コンニチワ、デス」
また空耳か、と思ったあやめはハッと振り向いた。何と哲が来ているのだ。
「オ、オミマイニ、キマシタ、デス」
哲の隣にはあやめと同じ高校の制服を着た女の子がいた。もちろん妹の香である。初対面のふたりは自己紹介し合った。
「あたし、妹の香です。テッチャンがお世話になりました」
「あ、わたしは柏田あやめ。こちらこそお世話さまでした」
「お加減いかがですか」
「あ……」
あやめはうつむいた。頭に包帯が巻いてあるので、頭のケガであることはわかるが、これが単なるケガではなく、記憶喪失の疑いがあることまではわからない。香は相手を気づかうように、
「あ、早く元気になって、学校で会いましょう。あたしは一年C組だけど、あやめさんは?」
あやめはすぐに答えられなかった。困っていると、視線が不意に、壁に掲げてあった制服の左胸のほうへ向いた。ネームプレートに二年B組柏田と出ている。香はあわてて頭を下げた。
「あ、先輩なんですね。あたし、なれなれしくしちゃったりして、すみません」
「そんなこと、気にしないで」
女の子同士、ふたりはすぐに打ち解け合った。しばらく談笑していた。
「あ、もうこんな時間。じゃ、あたしたちは帰ります。お邪魔しました。お大事に」
「また来てね。香ちゃん」
「ハイ」
香は哲を見た。
「テッチャン、帰るよ」
「ハイ、デス。カァチャン」
「え、カァチャン?」
一瞬ポカンとしていたあやめの声を聞いて、香は赤面になった。
「テッチャン、カァチャンなんて呼ばないの!」
あやめは可笑しそうに笑い出した。
「カァチャンって、お母さんのことではなく、香ちゃんのことだったんだ」
「はぁ、うちの問題なんですから」
「やっとわかったわ。テッチャンの話すカァチャンって、普通の母親じゃないような気がしてて、ずーっとチンプンカンプンだったけど、これで納得できた」
「テッチャンてば、あたしのことそんなに話したんですか」
「うん。ね、テッチャン」
「ハイ、デス」
「もぉ……」
いたたまれなくなって香は病室を出ようとした。
「お大事に。テッチャン、帰るよ」
「ハイ、デス」
「また来てね。テッチャン」
あやめは片手を振りながらふたりを見送った。カァチャンの意味がやっとわかって、また思い出し笑いするあやめだったが、急に何かひらめくものがあった。
思い込み、思いちがい、勘ちがい……
通念と認識、そして理解――
柏田あやめは窓の外を見た。一点を見つけると、すぐ病室を出て廊下を走り、病院を出た。たどり着いた場所は花壇だった。紫色の花を注意深く見つめた。
「これ、アヤメなんかじゃない。わたしったら勘ちがいしてたんだ。これはアヤメではなく、ハナショウブだ」
自分の勘ちがいに苦笑いしていたあやめだったが、何を思い出したのか、突然恐怖に包まれた表情になった。
「わたし、柏田あやめじゃない!」
(九)
病院側のスタッフたちは、柏田あやめの行方不明のために騒然としていた。連絡を受けた両親は心配そうに、ことの成り行きを見守っているだけだった。
柏田あやめ、いや、そう思われていた少女は今、別の地域で、人の多い歩道を歩いていた。目的(あて)があるような歩きかただった。その瞳は何かを確かめずにいられない不安な様子が漂っていた。かなり歩いていた足が止まった。そこは……
あのバスとトラックの衝突事故の現場だった。少女は周囲を見まわした。あのとき、自分がいた場所を捜しているのだ。バスの中ではない、ほかの場所だ。
少女はゆっくりそこへ向かった。バスと衝突したトラックが惰性のためにぶつかって止まった所、それは一本の街路樹だった。ぶつかった跡がなまなましい。その下には歩道に沿うように花壇が延びてあった。紫色の花が咲き乱れている。そのような場所に、ひとつ異様なものがあった。それは花束の群れだった。
とたん、少女の顔が恐怖のためにひきつれ、体が恐怖のために震え出した。
「あのとき、わたしはここにいた!」
そう認めた瞬間、少女は気絶した。通行人たちが驚いて救急車を呼んだのは言うまでもない。
(十)
端下(はなもと)さつき――
あの日の朝、彼女は通学途中だった。校門まであと一分という所で、突然バスとトラックが衝突し、そのトラックがこっちへ迫って来る!
睡眠不足で頭がスッキリしなかった彼女は、大きな音にびっくりするとともに、向かってくる巨大な物体から逃げる術(すべ)もなく、一瞬目の前が真っ暗になった。恐怖のために目を閉じたのだ。
それから……
どのくらいの時間が経ったのか、ほとんど自覚も感覚もなかった。また概念に対する認識もなかった。何も見えない、何も聞こえない、何も感じない、何も考えない。あるのは<無>だけの世界だった。
死んだのか、生きているのか……
そういう思考さえも浮かばなかった。そういう状態のまま、何時間も流れた。いや、流れたという感覚もないから、このような書きかたは変かも知れない。
ふと気づいたとき、彼女は病院のベッドの上にいた。何かあったのか、今日は何日なのか、そして自分が誰で何者だったのかさえも覚えていなかった。忘れたという概念ではなく、記憶の一部消失というのだが、たとえて言うなら、前世の記憶など何も覚えないまま、生まれたばかりの赤ん坊のような感覚だと言えばわかっていただけるだろうか。
目覚めたばかりの彼女は、両親を見てもわからなかった。名前を呼ばれてもわからなかったが、だんだん自分の名前が柏田あやめだと受け入れるようになった。
(十一)
「何と!」
お菊は驚愕した。あのとき感じたふたつの意識は、橋本哲と柏田あやめのものだと思っていた。しかし、ひとつの意識のほうだけ、実はちがったのだ。あれは柏田あやめではなく、端下さつきのものだったのか。だからいくら呼びかけても魂の反応がなかった。無の世界、つまり無機物的な存在になってしまったから、お菊の呼びかけ(霊験)に応じなかったのである。
「それでは柏田あやめの意識はいったいどこへ!」
普段沈着冷静なお菊がめずらしく動揺している。
「ま、まさか!」
お菊は霊視で遠くを見つめた。葬式場になっている端下家の中、遺体となっている端下さつきの体内には、眠ったままの柏田あやめの意識があった。
「あの事故のとき、ふたりの意識と体が入れ替わってしまった?!」
恐怖に満たされるときの心の動きほど、不安定なものはない。気を失うとともに、意識が体外へ吹き飛び、宙を彷徨いながら、もとの体へ還ろうとする。たとえ、たくさんの体があっても意識が記憶している限り、まちがうはずがない。
「柏田あやめと端下さつきの霊波が似ている。ふたりとも高校生。もしや友人同士なのでは?!」
お菊の霊視に、異様なものが映った。さつきの遺体の首に大きなカマがかかっている、不気味な場面だ。そのカマの持ち主全体が映し出されたとき、お菊は声を失った。顔はドクロで、黒いマントを身にまとった死神であった。
「クックック、お菊よ。しばらくぶりだな。残念だが、この女子は余と契約済みぞ」
「契約済み? すると女子は死ぬことを約束したと申しますのか」
「いかにも」
「そうはさせまじ」
お菊はあやめの意識へ強く呼びかけることを試みた。
「早くしなければあやめは、死神の食料になってしまう。まにいぬさん、おいでなされませ!」
「まに!」
いきなり出現したまにいぬは、お菊の意図を見抜くと、すぐ死神の所へ駆け出した。高速だ。
「ムッ?!」
何かの気配を感じた死神は、カマを遺体の首から放した。
「まに!」
「またしてもキサマか。まにいぬ」
死神はマントをひるがえした。
「このご馳走はおあずけぞ。まにいぬよ。お菊よ。この次逢ったが最期。覚悟するがよい」
死神は視界から霧のように消えた。その反対に、お菊が現れた。
「お菊さん」
「わらわは実に大変な思いちがいしてございました」
その言葉を聞いたまにいぬは、無言のまま、端下さつきの遺体を霊視で見やった。
(十二)
一方、現世界では気絶した柏田あやめ(中身は端下さつき)は近くの病院へ収容されたあと、ふたたび入院先の総合病院へ送り返された。それ以後、この少女は昏睡状態のままだった。心配し通しだった両親は胸をなでおろしたものの、まだ目覚めぬ娘の容体を案ずるしかなかった。見舞いに来た橋本哲、香の兄妹もどうすることもできず、ただ治ることだけを祈っていた。
そして野性的な少年は警戒を怠ることなく、周囲をうかがうとともに、橋本哲の中に潜むもうひとつの人格とコンタクトを取る方法も考えてもいた。
(テッチャン。ボクの声が聞こえるか。聞こえたら顔をボクのほうへ向けてくれ)
精神感応(テレパシー)で何度も送り続けても、哲の反応はなかった。やはり、哲が眠っている夜の間のほかに、呼び出す方法がない。
夜が来た。
異次元空間で橋本哲がさまよい歩いていた。
「お待ちしておりました。橋本哲さん」
「お菊さん。僕に何の用ですか」
お菊は霊視で、哲にあやめの病状を見せた。
「あやめちゃん、もうダメなんですか」
お菊は答える代わりに、斜め方向の先を見た。それにつられて、そっちを見た哲は両の眼を大きくした。ひとりの少女が現れたのである。
「テッチャン」
「え、その声、あ、あやめちゃん?」
「テッチャンが見たり話したりしたのは柏田あやめだけど、実は端下さつき、これがわたしなの」
「はぁ?」
哲の頭は混乱した。お菊は今までのことをすべて話した。
「何だかわからないけど、つまり、事故のために、意識と体がバラバラになった、ということですか」
お菊の話が終わったところで、哲は整理するように言った。
「さようでございます」
返辞したお菊は、さつきのほうへ視線を移した。
「さつきさんとあやめさんはお知り合いでございますね」
「ハイ、友だちなんです。親友なんです。だから助けてください。わたしとあやめの体が元に戻るように」
「訊きたいことがございますが、よろしゅうございますか」
「どうぞ」
「あやめさんは死の契約を交わしたようでございますが、真実(まこと)でございますか」
さつきは急にうつむいて噤んでしまった。
「さつきさん?」
お菊の声に、さつきは顔をあげなかった。哲が呼びかける。
「さつきちゃん、助けてほしいのなら、お菊さんに話せばいい。きっとお菊さんは助けてくれるよ」
哲の懸命な説得に、さつきは顔をあげた。哲の顔を見て、お菊のほうへ向くと、決心したように口を開いた。
「実はわたしたち、菖蒲占(あやめうら)をしていたんです」
(十三)
菖蒲占とは端午の節句、菖蒲を結んで成就祈願する占いで、菖蒲の上にクモが網を張っていれば、祈願達成の兆(きざし)となる。
共通の趣味が占いという似た者同士のあやめとさつきは、占いという占いに興味を示し、いろいろ手を出してみたのだが、吉でも凶でも本気になったことはない。ゲーム感覚である。
誕生日が同じで五月五日生まれだからか、性格や体格だけでなく、勉強や趣味、得意なこと、好きなものなど、よく似ていて、クラスでもふたごだとも言われた。話しかたも歩きかたもファッションも似たりよったりだから、知らない人から見れば本当の双生児だと思われても仕方なかった。
そんなふたりだから、占いはどっちが先に恋人が現れるか、とか、どっちが先に結婚するか、とか、女の子なら誰でも占いそうな内容ばかりだった。もちろん本気ではない。ゲーム感覚だ。強いて言うなら、現実の生活に何か刺激がほしいと思っているから、占いに依存しているようなものだ。
だが、今度の菖蒲占では趣旨を変更してみた。どっちか先に死ぬか、を占ったのだ。もちろん本気ではない。やはりゲームである。しかし、ふたりは大きな勘ちがい、いや、まちがいをしていることに気がつかない。
菖蒲……アヤメ、とも、ショウブ、ともいうが、このふたつはまったくの別種である。
ショウブというのはサトイモ科の多年生草本で、葉に芳香があり、根茎を乾かして菖蒲根として健胃薬となる。端午の節句で邪気を払うために、葉や根を入れて沸かす風呂が菖蒲湯である。
古称はアヤメとも呼んだのだが、アヤメというのはアヤメ科の多年草のことである。ほかに、俗称としてショウブとも呼ばれるハナショウブがあって、これはアヤメ科の多年草で、アヤメの仲間である。
花が似ているのかと言えばそうではなく、ショウブは黄緑、アヤメは紫、あるいは白、ハナショウブは白、桃、紫などの花を咲かせる。似ているのは単に葉の形だけである。
そういうちがいを知らぬまま、ふたりは菖蒲占に使うアヤメのことをよく知らなかったので、植物図鑑で調べただけだった。占い方法も知らなく、ただ自分の鞄に結んだだけである。
「ね、今度はブラックユーモアにしてみない?」
「何を占うの」
「どっちが先に死ぬか」
「え……」
「もちろん本気にしないよ。ゲームだよ」
そして数時間後、気づいたら、ふたりの鞄に結んだ菖蒲(アヤメ)の上にクモの網が張られてあったのだ。これは成就達成の兆だ。つまり、どちらも死ぬと言う。
「え、縁起でもない!」
「冗談に決まってるでしょ。ゲームじゃん」
ふたりは気持ち悪そうにショウブとクモの網をはずして捨てた。
その夜、ふたりは不気味な夢を見た。ふたりの住居はちがうのだが、同時刻に同じ夢を見たのだ。
周囲一面闇の世界、ふたりはお互いの手と手を握り合って、不安な様子で彷徨っていた。突然、大きなカマを持った巨大な存在、死神が現れた。
「余は人命喰う者なり。死の契約を交わしたのはどっちぞ。それともふたり一緒でも構わぬぞ」
恐怖でいっぱいのふたりだったが、夢の中だと思いなおして、ふたりとも死の契約を交わした。本気ではなく、ゲーム感覚である。
そして次の朝、あの事故が起こったのだ。
バスに乗っていた柏田あやめは夢のせいで睡眠不足になり、注意力が鈍っていたので、降りるべき停留所に気づかずまま、乗り過ごしてしまった。一方、端下さつきも同じように、睡眠不足で注意力散漫だったから運動能力も鈍っていたのだった。
(十四)
「あやめさんだけではなく、さつきさんも死の契約を交わしてございますね」
さつきの話が終わったところで、お菊が訊いた。
「ハイ」
さつきの返辞を聞いたお菊は、哲のほうへ視線を向けた。哲は一瞬ドキッとした。
「哲さん。お願いがございますが」
「何ですか」
「さつきさんとあやめさんを守るために、闘ってくださいますか」
「え、僕が闘う?」
「潜在能力をわらわが引き出しますので、戦士のイメージを思い描いてくだされませ」
「せ、戦士のイメージ……」
哲はいつも見ているテレビ番組の変身ヒーローのイメージを頭に思い浮かべた。
「変身!」
哲が叫ぶや、赤い炎のような霊気が哲の体を包んだ。たちまち体に真っ赤なバトルスーツ(戦闘用装備服)ができあがると、頭部にはヘルメットのようなマスクがおおいかぶった。腰のベルトの右にはガン(銃)、左にはソード(剣)が吊り下げてあった。
「異次元戦士、スーパーテッチャマン!」
名乗りをあげてガッツポーズで決めた哲に、いつの間に現れたのか、まにいぬが声をかけた。
「カッコつけてないで、救出に向かうぞ」
「おぉ!」
哲とまにいぬは端下さつきの遺体のある空間へ飛んだ。
(十五)
「ぬッ?!」
ただならぬ気配を察知した死神は、ふたつの存在を霊視で認めた。
「ひとつはまにいぬ。もうひとつは何ぞ」
死神は手下の、邪悪な意識の塊=鬼火を出現させた。
「出でよ!」
たちまち鬼火が巨大になり、その形状が龍になった。
「水の霊(みずち)、蛟竜(きゅうりょう)よ。あのふたつの存在を消滅せよ!」
龍が天高く飛びあがると、向かって来るふたつの存在を見すえるように待ち構えた。その巨大さに驚く哲とまにいぬだが、怯んでもいられない。龍のほうから火の玉が数弾撃ってくるのを、哲は、いや、テッチャマンは右手のガンで応戦した。命中率抜群とは言えないが、メチャクチャに撃ちまくる。
「まぁーにぃーッ!」
まにいぬが吠えると、その額から一本の角が生えた。龍を目がけて高く跳びあがる。まにいぬの角が急に伸びた。伸縮自在だ。角の先が龍の眼を襲う。が、龍は躱す。鋭い牙がまにいぬに襲いかかる。負けじとまにいぬも躱す。激しい攻防戦だ。
撃てとも撃てとも全滅しそうもない火の玉の群れに業を煮やしたテッチャマンはガンのモードを切り換えた。たちまち大きなバズーカ砲になった。構えるテッチャマン。大きな爆撃音とともにうしろへ転ぶ。火の玉群がもろともに自爆した。
「うぉっしゃあ!」
ガッツポーズしたテッチャマンは上空を見あげた。はるか彼方に巨大な龍と角を持った犬が攻防戦を繰り拡げているのが見えた。テッチャマンの脚が一気にジャンプ。テッチャマンの体が上空へ飛んだ。まにいぬを応援するためだ。だが、巨大なカマがテッチャマンの行く手を邪魔した。
「うゎッ」
落下したテッチャマンは起き直って巨大な死神を見あげた。
「赤いの、キサマは何者ぞ」
「異次元戦士、スーパーテッチャマン!」
カッコよく名乗りを決めたテッチャマンだが、死神のカマが容赦なく襲いかかる。テッチャマンは腰の左側にあるソードを抜いた。死神のカマを受け止める。が、吹き飛ばされる。はるか後方に転ぶテッチャマンを死神のカマが追う。必死で応戦するテッチャマン。
「まぁにぃーッ」
上空のほうではまにいぬが龍の背中に飛び乗って尾のほうへ逆走。それを追う龍の牙。牙が迫ってくるところでまにいぬはジャンプ。龍の牙が自分の背中を突き刺す形になった。そのスキにまにいぬの角が龍の眼を直撃!
たちまち龍の眼から炎のような血が吹き出し、周囲の空間が赤く染まった。まにいぬは両の拳を龍の顔に一気にぶつける。得意のパンチが龍の鼻、口、牙を何度も突く、突く、突く。メチャクチャな攻撃だ。最期のパンチで龍が玉砕。
「ぬッ?!」
上空の手下がやられたことを知った死神は、いずこかへ飛び去った。行く先は遺体のある空間だ。その首の上へ死神のカマが狙う。テッチャマンもまにいぬも必死に追いかけるが、間に合わない。今にもカマの鋒(きっさき)が遺体の首を直撃!
「ぬッ?!」
次の瞬間、遺体が消えた。死神が周囲を見まわすと、霧が晴れるように姿を現す者があった。お菊である。唱え続けていた呪文の霊力によって、端下さつきの遺体をよそへ移動させたのだ。
食料である人命を奪われた腹いせに、死神はカマを大きく振りあげる。それを、テッチャマンのガンが火を吹く。何発もぶち込む。カマで防御していた死神の体が少しずつ後退しつつあった。
「ぬッ?!」
背後の気配を鋭く察した死神が振り向くと、角を突き出すまにいぬの姿が迫って来る。
「ぬゥーッ」
死神はマントをひるがえす。まにいぬの角を防ぐためだ。だが反ってまにいぬの角に突き破られた。その勢いでまにいぬの角がドクロの口を直撃!
「ぐゎッ」
一瞬の油断が生じた死神の胴にテッチャマンのソードが斬る。
「必殺、テッチャマンソード!」
テッチャマンが叫ぶと、ソードが光り輝くようになり、光の群れが少しずつ死神の体を包み込んだ。そこへテッチャマンのソードがまっぷたつ!
「ぐゎぁあああーッ」
断末魔の叫びをあげた死神の体が、砂が崩れるように、粉砕した。
「勝った!」
テッチャマンがガッツポーズを取った。変身が解除してもとの人間の姿に戻った。
(十六)
端下さつきの遺体のそばへ寄った、さつきの意識が、遺体の中に眠っている柏田あやめの意識へ、懸命に呼びかけた。ようやく、あやめの意識が目覚めた。
「さつき、あたしたち、どうしたの」
「あやめ、わたしたちはバスとトラックの衝突事故に巻き込まれたせいで、意識と体がバラバラになったの。だから元に戻るために、あの人たちが助けてくれたよ」
さつきが目を向けたところに、お菊、まにいぬ、そして哲の姿があった。あやめは自分たちの状況が呑み込めたらしく、びっくりした口調で、
「え、さつきはもう死んじゃってるの?!」
さつきは辛そうにうなずいた。涙がこぼれる。
「バチが当たっちゃったんだよね。占いをまじめにしないでゲームのようにしたから、いけなかったんだ」
「だからって、どうしてさつきだけが死ぬの。そんなのいやだよ。不公平だよ。だったらあたしも死ぬ!」
「あやめ。わたしのためにそんなに泣かなくてもいいよ。わたしたち、親友だよ。いつまでも」
「さつき!」
さつきの意識が、さつきの遺体のほうへ向かおうとしていた。だんだん消えていく。
「ありがとう。あやめ。さようなら」
「さつきィいいいーッ」
さつきの意識が消えると、あやめは座り込んで激しく泣き続けた。さつきの名を何度も呼びながら……
その様子を見ていた哲は、お菊に言った。
「何とかならないんですか。あのふたりがかわいそうだ」
「現世界を変えることは、わらわにはできませぬゆえ」
「そんな……」
「わらわが大きなまちがいに気づきさえすれば、さつきさんは助かったかも知れませぬ。現世界同様、この世界もわらわの力ではどうすることもできないこともございますゆえ」
お菊の体が闇に溶けるように消えると、哲の意識は現世界で眠っている橋本哲の肉体へ戻って行った。
(了)
「イッテキマス、デス!」
いつもと変わらない朝、橋本哲が元気よく玄関を出た。続いて女子高生も出て来た。妹の香である。
「行って来ます」
いつも通っているバスの停留所に、いつも時刻表より一、二分遅れてノロノロと鈍いエンジンの大型バスが停車すると、哲と香を含めて何人かが乗った。しばらく走り、高校前停留所に着くと、香や同じ学校の生徒たちが降りて行った。
香たちを降ろしてふたたび走り出したバスの中、哲以外の乗客で、静かに手を合わせる者が何人かいた。
ふと、反対側の歩道を見ると、学校とは反対方向に歩いている女子高生の姿が見えた。退院したばかりの柏田あやめ、本人だった。
歩道の脇に立っている街路樹のそばへ足を止めたあやめは、事故のあとを見つめながら、静かに合掌した。バスとトラックが衝突した事故の犠牲者、端下さつきの墓標だった。