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DOLL/第三話

大人なんて大嫌い

 十二月の朝――
「おっはー、久美」
 冷たい風の吹くスクールゾーンの中、橋本香が友だちの背を見つけてあいさつの声をかけた。友だちは振り向く。
「あ、おっはー」
「だんだん寒くなってきたねぇ」
 香は身震いしながら言った。
「うん」
「どしたの。元気ないじゃん」
 長瀬久美子ながせくみこは気のない返事をしただけだった。香は気づかう。
「風邪ひいてない。大丈夫?」
「あ、何でもない。平気」
 久美子は小さく手を振った。
「そぉ。受験勉強も追い込みなんだから、お互い体に気をつけないとね。久美」
「うん」
 元気のない返事だった。
「ね、香」
「ん?」
「テッチャンは元気?」
「うん、元気だよ。時どきしか会ってないけど、元気でやってるよ」
「そぉ……」
 話題を急に変えた久美子を変に思いながら、香は相づちを打っていた。ハッと思いあたって、
「久美、まさか勉強はかどってないんじゃ……」
「え、そんなことないよ。大丈夫よ。平気」
 久美子はさかんに首を横に振った。
「何か悩んでない? 久美、あたしにできることなら何でも相談に乗るよ」
「ありがとう。でもいいの。気にしないで。これはわたしの問題なんだから」
「何だか知らないけど、思い詰めたりしないでね。最近、中学生の自殺が増えているんだから」
 それを聞くと、久美子はドキッとした。<自殺>という言葉が頭の中でこだまする。それを悟られまいとして、久美子は明るく振る舞おうとした。
「ね、今度の日曜日、テッチャンに会いに行こうよ」
「え?」
 ポカンとした香に、久美子はなおもくいさがった。
「ふたりで『ひだまりの村』へサイクリングしに行こう」
「えーッ、この寒いのに」
「雨さえ降らなければ、ね、行こうよ」
「う、うん。でも、父さんの許可をもらわないと」
「なぁに言ってんのよ。来年で高校生になるのに、まだお父さんに頼ってるの。香、あんたはテッチャンのカァチャンなんでしょ」
「久美までそんなふうに呼ばないでよ」
 香はふくれづらをした。それを見て久美子は笑った。何の悩みもないような笑顔だった。そんな久美子に釣られて、香も安心したように笑った。

 日曜日は気持ちのいい晴天だった。風も冷たくなく、暖かい。久美子は香の家まで迎えに行った。朝の九時ごろである。
「おっはー、香」
「おっはー。早いなぁ久美」
 香はあくびをしながら玄関から出て来た。庭の物置小屋から自転車を取り出す。その間、久美子は香の家をしげしげと眺めていた。うらやましそうな表情だ。香が問いかける。
「何、あたしの家に文句でもあるの?」
「ううん。おっきな家だねぇと思っただけ」
「あ、そっかぁ。久美の家って、あたしまだ見たことなかったっけ」
 そう言いながら香は久美子の自転車を見た。一見MTBと似るがMTBではなく、MTBルックスというタイプの自転車である。本格的なMTBあるいはATBはどんな悪路でも乗りこなすオフロード用バイシクルだが、もちろん誰でもと言うわけではない。腕と脚力によるところで、ベテランなら山道だろうと砂だらけだろうと一気に走り抜けてしまう者もいる。その外観ルックが若者のファッション感覚にピンとくるものがあるようで、一時流行になった。が、本格的に乗りこなすのでもなく、ただシティサイクル感覚で乗っているに過ぎなかったので、本格ではないMTBのニセもの(?!)が製造されたわけである。
 今、久美子が乗って来たのはそんな自転車だった。それに比べて香は自分の自転車を恥じた。どこにでもあるような婦人用サイクルだ。
「おはようございます」
 香の父親が玄関から出て来たので、久美子がお辞儀した。
「やぁ、おはよう。ふたりでサイクリングか。いいね、若い人は。くれぐれも事故には気をつけてな」
「ハイ」
「香、気をつけて行けよ。哲によろしくな」
「わかってるって」
 香はぶっきらぼうに返事した。ふたりはそろって自転車に乗った。久美子はまた父親に向かって頭をさげる。
「それじゃ、行って来ます」
 さっそうと駆け出した自転車二台を、父親は片手をあげて見送った。

「あ、パンクだ」
 出発してから約五分後、香の自転車の前輪がパンクしたのだ。先頭の久美子は気づく様子もなく、あっという間に遠くなった。
「あ〜ん、待ってよぉ」
 あせった香はディパックから携帯電話を取り出した。ワッタッチボタンで久美子を呼び出す。
「あ、久美。パンクしたよ。あたしの自転車」
 まもなく久美子の自転車が戻って来た。
「何よ、香。パンクだって」
「うん。修理できる?」
「できるわけないでしょ」
 そう言った久美子はピンとひらめいたらしく、
「そうだ。この近くに『モリサイクル』があるんだ。そこへ行こう」
 久美子は自転車を降りて歩きはじめた。
「え、歩くの?」
「うん。よかったね。通りすぎない所でパンクしてて。通りすぎたあとだったら戻らなければならなかったんだよ」
「ふん。悪かったねぇ」
 香はまたほほをふくらました。プッ、と久美子は吹き出した。まもなくモリサイクルの看板が見えた。腕時計を見て、早いかと思ったが、さいわい開店していた。まず久美子が自転車を店のまわりに置いて、自動ドアの前を踏んだ。スゥーッと開く。
「いらっしゃい」
 元気のいい声が迎えてきた。サイクルキャップをうしろ向きにかぶった青年が整備中の手を休めて、久美子に顔を向けた。風来坊である。
「あ、あの、友だちの自転車がパンクしているんです」
「ハイ、パンクですね」
 風来坊は店の外にたたずんでいる香の自転車を見やった。ガラス張りだから外も内も丸見えである。風来坊は歩いて自動ドアに来た。ドアが開く。
「どうぞ。中へ」
「ハァ」
 香は自転車を店内へ入れた。風来坊は慣れた手つきで香から自転車を受け取り、整備台に置いた。たちまち前輪のタイヤに二、三本のタイヤレバーを掛け、タイヤをはずすと中からチューブを取り出す。少し空気を入れ、バケツに入った水につけた。チューブをまわしながらパンクの穴を探す。と、泡が出た。その個所に印をつけ、紙ヤスリをかけた。チューブの面が粗くなり、パンクの穴も目立った。そことそのまわりにゴムのりを塗る。ムラなく平面的に塗った。
 そんな風来坊の作業を、久美子と香は眺めていた。店内や展示用の自転車、部品、グッズなどをひまつぶしに眺めるのも忘れるくらい、ふたりはただ風来坊の作業を見つめていた。と言うのは風来坊の右足が気になったからである。さっきの、ほんの五、六歩くらいだが、まともな歩き方ではなかった。
 所在なさそうに突っ立っているふたりに気づいて、風来坊は丸イスをふたつ出した。
「どうぞ」
「あ、すみません」
 ふたりは同時に腰をかけた。風来坊は手を休めずに、
「友だちとサイクリングですか」
「あ、ハイ」
「おふたりさんは高校生?」
「中学三年です」
「ほぉ」
 風来坊はゴムのりの乾き具合を見ながら、
「中学三年だとすると、今は受験勉強で大変だね。たまには息抜きもいいですよ。サイクリングでパァーッとね」
 風来坊の話し振りが明るかったので、ふたりはそろって笑った。
 ほどなくして風来坊はゴムパッチを取り出し、チューブに強く貼った。それを床に置き、踏みつける。そのあと、パッチの貼り具合を確認するとタイヤの中へ入れた。空気を入れて前輪がたちまち元通りになった。
「ハイ。パンク修理完了です」
 香は小銭入れを出した。
「いくらですか」
「あ、え〜と、いくらだったっけ」
 風来坊はあわてて店の奥へ引っ込んだ。体が少し揺れている。
「森さん、パンクの修理はいくらでしたっけ」
『ん? 千円だよ』
 という声が返った。風来坊はふたりの所へ戻る。
「千円になります」
 ふたりは顔を見合わせた。高い、という表情だ。それでも香は千円札を出して風来坊に渡した。
「毎度ありがとうございました」
 風来坊は千円札を押しいただきながら頭をさげた。思わぬ出費がかさんでしまったが、久美子と香はサイクリングを再開した。

『ひだまりの村』に着いたのは十一時ごろだった。ふたりは村長室に断りを入れてから橋本哲の部屋を訪ねた。村長と書いたが、一応施設なので園長と書くべきかも知れない。最初は『ひだまり園』という養護施設(昔なら孤児院と呼ばれた)だったのが、老人ホーム、介護センターなど社会福祉に関する事業(?)を拡大させ、施設が大きくなったので改称して『ひだまりの村』となり、園長から村長にかわった次第であった。
 哲の部屋を訪ねた香と久美子だが、部屋はもぬけのカラだった。ふたりは施設内を捜しまわった。施設はコの字型の建物で、庭には花壇や植え込みのほか、鉄棒やブランコ、シーソー、すべり台、ジャングルジムなどもあった。職員やヘルパーやボランティアたちの姿も見かける。そのうちのひとりに、香は声をかけてみた。
「こんにちわ。あの、テッチャン見ませんでした?」
「あらいらっしゃい。テッチャンね」
 そのヘルパーはほかのヘルパーやボランティア、障害者にも聞いてみた。
「ねぇ、誰かテッチャン見かけなかった?」
「オー、テッチャン、ナラ、ロ、ロージン、ホーム、ヘ、イッテタ、ゾ」
 小児マヒらしい車イスの少年が教えてくれた。
「ありがとう」
 香は礼を言って久美子をうながした。ふたりは施設の隣接地にある老人ホームへ向かった。テッチャンに会うことを楽しみにしていた久美子だったが、急にしり込みした。
「……久美?」
 立ち止まった久美子の行動をいぶかって、香が呼んだ。久美子は悩ましげな表情だった。周囲にいる老人たちの姿を見るや、思わずしゃがんだ。香がそばに来る。
「久美、どっか気分でも悪いの?」
 久美子の顔をのぞき込みながら香は訊いた。
「サイクリングで疲れたんじゃない?」
 久美子は首を横に振った。
「だ、大丈夫よ」
「大丈夫なわけないでしょ。顔がまっ青だよ」
 それでも久美子は立とうとした。それを香が支える。気分はいくらかおさまったが、久美子の足取りは不安定だ。香は気づかった。
「大丈夫?」
「うん。何とか」
「今日はもう帰ろうか」
「何言ってんのよ。ここまで来て」
 意地にもにも久美子は歩いた。香は支えながらつきそった。哲を捜してみたが、姿は見えなかった。
「テッチャンたら、老人ホームで迷惑をかけてなきゃいいけど」
 そんなことを心配する香であったが、哲を見つけたのは久美子の方だった。そこはロビーで、五脚並んでいる長イスがあった。そのひとつの端に哲が座っていた。久美子が香に教える。
「いたよ。テッチャン、あそこ」
「何してんだろ。テッチャンてば、あんな所にポツンと座って」
 それを聞くと久美子は少し笑った。どうやら気分もなおったようだ。ふたりは哲の所へ近づいた。
「テッチャン、何してんのよ」
「ア、カァチャン。ナ、ナニモ、シ、シテマセン、デス」
「何もしてないって、ただ座ってるだけ?」
「ハイ、デス」
 香のうしろから久美子が声をかけた。
「テッチャン、こんにちわ。わたしのこと、おぼえてる?」
 哲は久美子の顔をまじまじと見つめた。
「やだぁ、忘れちゃった?」
 久美子は苦笑いした。
「ア!」
 突然、哲が素っ頓狂な声をあげた。
「ク、クミチャン、デス」
「わ、おぼえてくれたんだ。ありがとう。テッチャン、しばらくね。元気?」
「ハイ、デス」
 たちまち静かなロビーに笑い声がわきあがった。と、その時、いんげんな声が飛んで来た。
「ウルサイね!」
 ギクッとした香と久美子は声の方へ振り向いた。ほかの長イスにひとりの老婆が座っていたのである。ムスッとしている。今までその存在に気づかなかった香が、老婆に向かって頭をさげた。
「すみません。これから気をつけます」
 香は哲を引っ張った。
「テッチャン、ここにいちゃダメだよ。おばあさんに迷惑がかかるから」
「ハイ、デス」
 哲は香に従った。そんなふたりとともに、ここを離れる久美子はチラと老婆を見やった。老婆はただじっと座っていた。こちらの存在などまるで意に介さないような態度である。また久美子の胸中にムラムラとくるものがあった。胃液が逆流してしまいそうな気分だ。久美子は耐えながら香や哲のあとを追った。
 三人は庭に出た。小さな子供たちが遊んでいるそばを通って、ベンチに落ちついた。
「テッチャン、あそぼうヨ」
 子供たちが声をかけてくれた。哲は香を見ながら、
「ア、アソンデ、イイ、デスカ」
「いちいちあたしに断ることないでしょ。遊んだら」
「ハイ、デス」
 哲は勢いよく立って子供たちの輪に入っていった。その様子を眺めながら久美子はつぶやいた。
「……うらやましいな」
「え?」
 香は聞きのがした。子供たちの喊声かんせいが邪魔してよく聞き取れなかったのだ。
「今、何て言った、久美?」
 久美子はちょっと香を見てから、また子供たちと遊ぶ哲の姿を見ながら、
「わたし、時どきテッチャンのこと、うらやましいな、って思うの」
「うらやましい、テッチャンが?」
 哲がうらやましいなんて考えてみたこともなかったので、香はさらに訊いた。それは詰問に似た口調だった。
「ど、どういう意味よ。テッチャンがうらやましいって」
 久美子は黙ったまま、哲を見ているだけだった。香はじれったくなって久美子の肩を揺すった。
「久美」
 久美子はうつむいた。何か悩んでいるようだ。その口が動いた。
「何も考えずに済むんだもの」
 その言葉だけで香がショックを受けるのに充分すぎた。
「え、何も考えてないテッチャンがうらやましいって言うの?」
 久美子はうなずいて、また言った。
「それにね、自分が<子供>だとか<大人>だとか、わからないまま成長してるわけでしょ」
「久美!」
 突然香が怒鳴った。いや、悲しみに似た感情だった。
「いくら親友でもテッチャンのことをそんなふうに見てるなんて、あたしはガマンできないよ。テッチャンはあたしにとって、たったひとりの<兄>だもの」
「ご、ごめん」
 香のけんまくにおどろいて久美子は素直に謝った。香は冷静になろうと努めた。
「久美、何か悩んでんでしょ。最近の久美、おかしいよ。やっぱり勉強の疲れなんじゃない?」
「そ、そんなことない」
 片手をさかんに振り続ける久美子の視界に、老婆の姿が映った。それはさっきの、老人ホームのロビーにいた同じ老婆だった。散歩中のようである。久美子はまた気分が悪くなった。胃液が逆流しそうだ。
「……久美?」
 香が心配顔で呼んだ。久美子は胸をおさえながら、
「もう帰ろう。ごめん。誘ったのはわたしなのに」
「ううん、いいんだよ。気分が悪いのなら早く帰った方がいいよ」
「そ、そうね」
 香は哲に呼びかけた。
「テッチャン、あたしたち、もう帰るよ。くれぐれもみなさんに迷惑をかけちゃダメだよ。わかった?」
「ハイ、ワカリマシタ、デス」
 返事しながら哲は子供たちと遊んでいた。久美子は香の肩を借りてベンチから立とうとした。が、まだ不安定だ。そんなふたりの様子を、さっきの老婆はじっと観察していた。ムスッとしているが、心配そうだ。早速ふたりの所へ行く。
「どうかしたのかい。気分でも悪いのかい」
 香が老婆に振り向いた。
「あ、大丈夫です。ご心配なく」
「何言っとるんかね。その娘さん、苦しそうじゃないか。保健室で横になったらよかろう」
 老婆が近づくや、久美子の表情が激変した。
「うッ」
 久美子は急に香のそばから離れた。
「久美?!」
 久美子は茂みの所へ行き、うずくまった。とたん、逆流したものが久美子の口から吐き出された。
「久美」
 香はおどろきながら久美子の背中をさすった。久美子の肩が大きく波打ち、呼吸も乱れた。涙も出て来る。何分か続いたが、ようやくおさまり、落ち着きが戻った。
「久美、大丈夫?」
 久美子は少しうなずいた。老婆はいやな顔をせず、近くにいたボランティアに声をかけた。
「バケツとゾーキン、持って来てや」
「ハイ」
 返事したボランティアの若い娘はどこかへ行った。老婆は久美子を見やる。
「あんた、顔色が悪いよ。少しでもいいから保健室で横になったらいいよ」
 久美子は何も応えなかった。香が訊く。
「久美、どうする。保健室で横にする? それとも」
「帰る!」
 突然久美子が大きい声を出したので、香はびっくりした。老婆が冷たい口調で言う。
「フン。せっかくこのババァが親切にしてやってるのに、最近の若い者は礼儀ってものを知らんのかね」
 言い捨てると、老婆は背を向けて去った。その背へ、香は頭をさげた。
「どうもすみませんでした」
 老婆と入れちがいに、さっきの若いボランティアがバケツとゾーキンを持って来た。まだ二十代前半のようだ。早速汚物処理にかかる。香があわてて、
「あ、あたしがやります」
「いいの、いいの。気にしないで」
 ボランティアはてきぱきとゾーキンで汚物をふき取り、バケツに入れる作業を繰り返していた。臭気が漂っていたが、ボランティアは嫌な顔をしなかった。老人介護で慣れているからだろうか。香は尊敬の目でボランティアの作業を眺めていた。作業を済ませたボランティアは、香と久美子を見比べながら、
「気分はどうですか。やっぱり保健室で横にしますか」
 香は久美子を見た。久美子はしばらく噤んでいたが、
「いいえ、結構です。ご面倒をおかけしまして、すみませんでした」
 頭をさげると、香に向いた。
「帰ろう」
「あ、うん」
 香はボランティアに頭をさげた。
「それじゃ失礼します」
「そう。お大事にね」
 香と久美子はまだ知らなかったが、この娘こそ森夕子であった――

「ねぇ香」
 信号待ちしている間に、久美子が声をかけた。
「何か食べよう。もうお昼なんだし」
「だ、大丈夫?」
「うん。吐いたらスッキリして、お腹空いてんだ」
「あたしはかまわないよ」
「じゃあさ、喫茶店へ行こうか。この辺、知ってんだ」
「喫茶店、何という所?」
「ドール」
「え?」
 信号が青にかわったので、ふたりの自転車は安全確認しながら発進した。
 まもなくドールに着いた。香は気乗りしなかったが、久美子とともに自転車をまわりの植え込みにとめた。日曜日の正午すぎなので、駐車場には七台とまっていた。もっとも忙しい来客時間帯である。
 扉を開けると、カララン、とチャイム(鐘)が鳴った。
「いらっしゃいませ」
 例のごとく、南部ゆかりが接客スマイルで出迎えて来た。久美子があいさつする。
「こんにちわ」
「あら久美ちゃん。いらっしゃい」
 ゆかりは香の顔を見るとすぐ思い出せた。
「あ、たしか、テッチャンの」
 香は苦笑いしながら頭をさげた。その様子を見て、久美子が訊く。
「あれ、香。ここ来たことあったの?」
「う、うん」
 ふたりはゆかりの案内で、カウンターの空席へ行った。水とおしぼりが出される。メニューを見ながら相談する。注文が決まると、久美子が手をあげてゆかりを呼んだ。サンドイッチセットとホットミルクティーふたつを注文する。
「ハイ」
 オーダー票に記入すると、ゆかりはまた店内を歩きまわった。料理や飲みものを運んだり、食事のおわった皿やカップをさげたりして、忙しそうだ。香は水を少し飲みながら久美子に訊いた。
「ね、久美。ここ、よく来るの?」
「うん。まぁ、親戚だもの」
「え、親戚?」
「うん」
「じゃあ、さっきの女の人も」
「あれは叔母さん」
「え、おばさん?」
 香はおばさんと呼ぶにはまだ若いゆかりの姿を見やった。久美子は説明する。
「ここの主人がわたしの叔父さん。正確に言うと、うちの母の弟なの」
「はぁ」
 香は納得した。
「だからなのか。久美がテッチャンをヘンな目で見ないのはそういう環境で育ったからなんだ」
 香は話題を変えた。
「そう言えばあたし、久美の家族のこと、あまり知らないな」
 それを聞くと、久美子はなぜか沈んだ顔をした。
「久美?」
「……話せるような家族じゃないもの」
 それ以来、久美子は噤んでしまった。気まずい雰囲気が漂ったが、それを打ち破ったのはゆかりの声だった。
「お待たせいたしました」
 サンドイッチセットとふたつのホットミルクティーが運ばれて来た。ふたりは早速食事にかかる。
「やぁ、久美ちゃんじゃないか。いらっしゃい」
 という声がふたりの耳に入った。顔をあげると、久美子の叔父、南部豊がカウンター内で声をかけてきたところだった。久美子があいさつを返す。
「こんにちわ」
 豊は香の顔を見ると、
「おや、何だ、君たちは友だちだったの。偶然だね」
 久美子は香と豊を見比べながら、
「やっぱり来たことあったんだ。やっぱ、テッチャンのことで?」
「う、うん」
 気まずそうに返事した香は豊に頭をさげた。
「あの時は失礼しました」
「いや、テッチャンのことなら気にしてませんよ。テッチャンは元気ですか」
「ハイ。今はひだまりの村に入って生活してます。今日も久美とそこへ行って来たんです」
「ほぉ、ひだまりの村」
 豊とゆかりはびっくりしたようにお互いを見合わせた。豊は笑いながら、
「やっぱり縁故は縁故を呼ぶんだね」
「あなた、それ、類は友を呼ぶ、でしょ」
 ゆかりがとがめたが、豊は笑いをくずさなかった。
「まぁ似たようなもんさ。しかし、世の中って広いようで、案外狭いもんだね」
 四人は笑い合った。アットホームな雰囲気だった。ふいに、カララン、と来客を告げるチャイムが鳴った。
「いらっしゃいませ」
 ゆかりが接客スマイルを向けた時、すぐこわばった。その様子に気づいて、豊も客を見ておどろいた。
「お、おふくろ」
 その言葉が聞こえた時、ギクンと胸中が騒いだのはほかならぬ久美子だった。高級着物を身に包んだ老婦人は、久美子の姿を見つけると呼びかけた。ひどくとげとげしい口調だ。
「久美子さん、こんな所で何をしているのです。今は受験勉強の大事な時期じゃありませんか。あなたは将来、名門のT大学に受からなければなりません。こんなことでは、高校は二流か三流になってしまいますよ」
 突然の場面で、香は久美子にどう接したらいいのか、わからなかった。久美子は祖母である老婦人から目をそらしていた。目を合わせたくない心境だ。
「久しぶりにあなたの家に行って勉強の進み具合を見るつもりだったのに、あなたは留守じゃありませんか。それで、ずいぶん捜しまわりましたよ。さいわい、自転車を見つけましたので、あなたをつかまえることができたわけです。さぁ、車を待たせていますので、それに乗って帰るのです」
 それでも久美子は動こうとはしなかった。
「聞こえないのですか。久美子さん」
 老婦人が久美子の席に近づいた時、また久美子の気分が悪くなった。食べたばかりのものが逆流しそうだ。
「うッ」
「久美」
 香が久美子の背中をさすった。いくらか気分はおさまったが、老婦人の叱りの声が耳を衝く。
「いい加減になさい。久美子さん。そうやって仮病を使って勉強を休もうなんて、そんな手には乗りませんよ。さぁ」
 老婦人は手をのばして久美子の肩に触れようとした。と、次の瞬間、
「来ないで!」
 久美子は振り向きざま、老婦人の手を拒んだ。一気に叫ぶ。
「勉強、勉強ってウルサイよ。わたしはちゃんとやってるし、それに高校なんて大学なんて、一流でなくてもどこでもいいじゃない。どうしてわたしの好きなようにさせてくれないの。わたし、頭でっかちな人間なんかになりたくない!」
 泣き叫びながら言い切った久美子は、席を立って扉の方へ駆け出した。
「久美!」
 香もあわててあとを追った。ほかの一般客の注目の中、豊は老婦人に怒鳴った。
「おふくろ、いい加減にしろ。何でもかんでも自分の思い通りにしないと気が済まないのか。まったく昔からちっとも変わってないな!」
 息子に怒鳴られているというのに、老婦人は威厳とした態度だった。ギロリと豊を見ると、
「おまえには関係のないことです」
 プイと横向いて扉へさっさと歩いた。豊はまだ言い足りないのか、老婦人を追った。
「待てよ、おふくろ」
「あなた」
 ゆかりが制した。興奮している豊を静めながら、店内の一般客に向かって深ぶかと頭をさげた。
「大変お騒がせいたしました。申し訳ございませんでした。どうぞごゆっくり」
 ゆかりは名残顔なごりがおで扉や窓の外を眺めた。老婦人の運転手が久美子の腕を取っているところだった。何とか振りほどこうとする久美子とそれを助ける香のふたりでも、運転手の力にはかなわなかった。店から出た老婦人が怒鳴る。
「久美子さん、いい加減になさい。さぁ、車に乗るんです」
「いやだよ!」
 久美子は運転手の腕を思いっきり噛んだ。
「イテェーッ」
 腕に激痛が走って運転手は思わず久美子を放した。そのスキに久美子は逃げ出す。香も追う。
「久美!」
 久美子は喫茶店へ向かって走った。扉ではなく、非常階段だ。一気に駆けのぼる。ただならぬ事態を悟った豊も店を出た。
「おふくろ、いい加減にしろ。女の子を泣かせて平気なのか」
 と、その時だ。香の悲鳴があがった。
「久美、やめてぇーッ」
 何と、非常階段をのぼり切った久美子は、続きになっている部屋の窓から体を出して、壁をよじ登り始めたのだ。ひと足おくれた香は窓から叫ぶばかりだ。
「久美、あぶないよ。戻って来て!」
「く、久美ちゃん」
 こうしてはおれないと豊も非常階段を駆けのぼった。そうしている間に、久美子は屋根に届く所までよじ登っていた。一気に屋根にあがる。その表情に恐怖はみじんも感じられなかった。眼下に祖母の姿を認めると、憎しみに似た形相になった。
「あんたみたいな大人なんて大嫌い! あんたみたいな大人になるくらいなら、わたし死んでやる!」
 それは感情の爆発だった。今までいかりや憎しみを見せたことのなかった久美子の内面が一気に爆発したのだ。
 久美子の悩み――それは大人になることだった。小学校六年の時、初潮があって以来、一時は食思不振症になったこともあった。成長したくないという思いが食欲をおさえつけていたのだ。もっと根底的な原因を言うなら、大好きだった父方の祖母が病気で亡くなったことに由来している。その時の久美子はまだ小学校低学年だった。血を吐きながら苦しんでいた祖母をのあたりにした久美子は、赤を見ると血と連想してしまうくらい、赤の色を毛嫌いするようになった。そして、初潮……両親や周囲は祝福してくれるのに、久美子の気持ちは晴れなかった。
 大人になりたくない――
 純粋な子供のままでいたい。しかし、時の流れが容赦なく、久美子の心や体を成長させる一方だ。そんな思いの中、一時は<自殺>のことも考えた。最近、中学生の自殺の原因はいじめによるものが多いと言うが、もっと根本的な悩みがあったのじゃないか。それは<大人になることへの抵抗>……
 そんな久美子の悩みなど知ろうともしなかった母方の祖母(南部豊の実母)は、ただ教育だけに徹していた。久美子の父は地方議会の中堅議員、母は政界の社交家という、そんな家庭に育った久美子は、学校や社会の大人たちに対して少しずつ不信感を抱くようになった。
 自分勝手な大人になんかなりたくない。高校だって大学だって自分の好きな所を自分で選んで合格するんだ。きっと祖母や両親を見返してやるんだ。そういう思いでがんばってきた久美子であった。
 その久美子が今、祖母への憎しみを抱きながら屋根のてっぺんへよじ登っていた。豊も香を窓側に残してよじ登る。当然、周囲は大騒ぎになった。一一〇番へ通報する者も出た。
「久美ちゃん。落ち着くんだ。落ち着いて」
 やっと屋根にあがった豊は、久美子の所へ少しずつ近寄ろうとした。それを久美子の声が拒む。
「来ないで。お願いだから来ないで。おじさん」
 久美子は泣いていた。足場も不安定だ。今にもすべり落ちるかも知れない。豊は慎重に説得を試みた。
「久美ちゃん。そのままじゃあぶないぞ。もっと上へ行ってみろ。屋根のてっぺんに平らな所があるだろ。そこに腰かけたらいい。きっといい景色が見渡せるぞ」
 説得どころか意外なことを言い出した豊の言動が、下から見守っているゆかりをハラハラさせた。
「あの人ったら何を言い出すのよ。もっと上へ行ってみろですって」
 老婦人は冷やかな目で豊と久美子を見ているだけだった。香は窓からふたりの様子が見えなくなったので、いったん部屋を出て非常階段を降り始めた。
「久美……」
 不安げな表情で上を見ていた。ついさっきまでは一緒にサイクリングしたり、テッチャンと笑いころげたり、一緒にサンドイッチ食べたりしていたのに、この急な展開に対応できず、どうしていいか、わからなかった。ただ無事におわることだけを願った。
「さぁ久美ちゃん、僕と一緒にてっぺんへ行ってみようじゃないか。そう言えば久美ちゃんは高い所が好きだったんだよね」
 豊は手をさしのべようとした。まだ同じ所にじっとしていた久美子は、興奮状態からようやく落ち着きを取り戻したようだった。しかし、泣き顔はまだ残っている。
「大人なんて……大人なんて、大嫌い」
 やっとの思いで吐き出した久美子の言葉を、豊は悲痛な気持ちで受け止めた。
「そうか。大人が大嫌い、か」
 何か考えごとをしていた豊は笑顔をつくろうとした。が、それはつくり笑いでしかなかった。
「久美ちゃん、よく聞くんだ。大人が嫌いならそれでもいい。とにかく上へ行こう。このままじゃ僕も君もあぶない。実際、僕も不安なんだ。いつ落ちるかわかったもんじゃない。さぁ上へ行こう」
 懸命に繰り返す豊だが、久美子は相変わらず動こうとしなかった。何か思いついた豊は、少し迷ったが決心した。
「それじゃ久美ちゃん。僕を殴れ」
 久美子はえ?というような顔を、豊に向けた。豊がまた言い続ける。
「僕も、君の大嫌いな大人のひとりだよ。君の悩み、苦しみ、悲しみなどを自分の手に集めて、僕を殴るんだ。君はあのおばあさんがいやで大人なんて大嫌い、大人になりたくないと思い詰めているのなら、僕を殴れ。僕も大人だし、それにおばあさんの血を引く息子でもあるから」
 それを聞くと、久美子の右手が自然にこぶしをつくった。ギュッと握りしめる。その動作を見ながら、
「でも、そこでは僕を殴れないだろ。ちょっと遠いから。さぁ、上へ行こう」
 ようやく納得した久美子は不安定ながらもてっぺんに向かってよじ登った。豊もよじ登る。ふたりはほとんど同時にてっぺんに着いた。豊は自分のほほをさした。
「さぁ、僕を殴るがいい」
 久美子はためらっていたが、右手のこぶしで豊を殴った。あまりにも弱よわしいパンチだ。豊はさらにはげました。
「これが君の気持ちか。それだけじゃないだろう。君のいやなこと、きらいなこと、悔しいこと、悲しいことを全部その右手に集めるんだ。そして、思いきりぶつけるんだ。何度も何度も、気が済むまで。スッキリするまで。スカッとするまで!」
 久美子は渾身の力で豊を殴った。また殴る、殴る、また殴った。いやなこと、きらいなことを忘れるパンチであった。悔しさや悲しみを忘れるパンチであった。できることなら大人になりたくないと願うパンチであった。そういう思いで久美子は何度も飽くことなく、パンチを繰り返した。
 それはずっと続くかのように思われた。そして、久美子はとうとう泣きくずれて、豊の胸に飛び込んだ。
「わぁあああああ」
 久美子は大声で泣き続けた。いやなこと、悲しいことなどを押し流すように、涙も滝のように止まらなかった。その様子を眺めたゆかりと香は、もらい泣きしながらホッとしていた。老婦人は相変わらずのていだったが、やがて運転手に向いた。
「帰ります」
 運転手はあわてて後部座席のドアを開けた。あれほど騒いでいたやじ馬たちも潮を引くように解散した。
「あなた」
 ようやく久美子を連れ戻した豊を、ゆかりは出迎えた。豊のほほはあざだらけだった。痛いたしい。香も久美子を迎えた。泣き疲れたのか、元気がない様子だ。そのうつむいていた顔が、ふと豊に向いた。
「おじさん。ごめんなさい。痛かったでしょ」
「いや、大丈夫だよ」
 気丈にふるまった豊はゆかりに言った。
「ゆかり、車で送ってあげるといい。ワゴンなら自転車二台入れられるだろう」
 ゆかりはうなずきながら、
「血がちょっと出てるから、絆創膏でも貼って。でも、ほんとは痛かったんでしょ」
 ああ、と豊はうなずく。
「でも、もっと痛い所があるんだよ」
「え、どこ」
「ここ」
 豊は自分の胸をさした。ゆかりは納得したように少し笑った。
 香ははじめて久美子の内面をちょっとだけ思い知らされたのであった。「テッチャンがうらやましい」と言ったのは大人になることへの拒否からでもあったし、祖母のすすめる高校よりも自分で選ぶ高校を受けようとする頑固さ、家庭内での反抗……久美子は孤独でたたかっていたのだ。
 久美子は香に言った。
「心配させてごめん。わたしは大丈夫だから。また明日からは、いつものわたしに戻るから。だからまた、がんばろう」
 泣き疲れたはずなのに、久美子は笑おうとしていた。その笑顔を見て香の胸中はふるえた。やがて香も笑顔で返した。
「うん。またがんばろうね」

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