DOLL/第六話
コギャルとテッチャン
二月の午後――
この街も寒波にさらされて、人びとも寒そうに背を丸めて行き交っていた。今まで毎回のように<この街>と書いてきたが、それがどこであるかは、読者諸氏(?)のイメージにまかせることにしている。自分の住んでいる街でもいいし、故郷だと思い浮かべてもさしつかえない。
この街には地方鉄道Y駅があってその周辺には商店街や小さな動物園を兼ねた公園、歩行者天国、飲食店などが多く点在していた。そのような場所でちょっとした<事件>が起こった。
ある銀行Y支店からひとりの老婦人が出て来た。両手で大事そうに手提げカバンをかかえている。その様子を遠くから眺めている存在があった。それは女子高生だった。この寒いのにミニスカートの制服にルーズソックス、そして顔はクロく、髪の毛は白に近い。俗にいう<ガングロ>あるいは<ヤマンバ>と呼ばれるコギャルの類いである。おまけにガムをかんでいる。目のまわりを白く塗っている両の瞳は絶えず老婦人のカバンを狙っていた。
雑踏の中、老婦人はコギャルの視線に気づかない。ふたりが近づいた時、コギャルの行動は素早かった。老婦人のカバンをひったくり、走り去ったのだ。一瞬のことで茫然していた老婦人はやっとの思いで叫んだ。
「ド、ドロボー!」
逃げるコギャルはニヤリしながらベロを出した。
「バーカ」
よそ見していたので、人とぶつかって転んだ。
「いってぇな。どこ見て歩いてんだよ」
「ゴ、ゴメンナサイ、デス」
「ハ?」
コギャルは立ちながら相手をにらんだ。高校生のようだが、どこか普通とちがう少年らしい。
「あんたね、ごめんなさいですむと思ってんの?」
「ナ、ナニヲスレバイイ、デスカ」
コギャルは頭をさしながら、
「あんた、ここがパー?」
ガムを吐き捨てる。周囲の視線を気にしないようだ。
「ドロボー!」
老婦人がコギャルのあとを追いかけていた。足はそんなに早くはなかった。
「ヤベー」
コギャルはひったくったカバンを少年に押しつけると逃げた。少年はポカンと突っ立ったままだ。老婦人が近づいて来る。
「あら、テッチャンじゃないの」
「ア、ウメおばあちゃん、デス」
橋本哲と、同じ『ひだまりの村』の老人ホームに入居している田中梅子だった。梅さん、あるいは梅ばあさんと呼ばれ、入居している人たちにとってはちょっとした<母親的存在>だった。
「カバンを取り返してくれたんだね。ありがとう。テッチャン」
何も知らない梅子は礼を言ったあと、哲をじっと見た。
「ところでテッチャン、こんな所で何してたの」
ひだまりの村と養護学校の通学コースとはちがう地域だった。
「チョ、チョット、トオマワリシテ、ミタカッタ、ダケデス」
「でもテッチャン、ひとりはダメですよ。迷子になったらどうするの。たまたまわたしがいたからよかったものの、今度からは誰かと一緒でなきゃいけませんよ。わかった?」
「ハイ、ワカリマシタ、デス」
「それじゃ、わたしと一緒に帰ろうね」
「ハイ、デス」
梅子と哲は連れ立ってひだまりの村へ帰った。
翌日の午後、哲はまたY駅周辺をウロウロしていた。いや、迷子になっているのではない。誰かを探しているようだ。その視線の的は女子高生ばかりに絞っていた。普通の制服のもあれば、ガングロ、ゴングロ、ヤマンバのような格好のもあった。なかなか見つからないので、周辺を歩きまわるのをやめて駅内を探すことにした。
「ア」
哲はやっと見おぼえのあるコギャルを見つけ出した。人ゴミの絶えない駅の中、大きな柱に寄りかかって携帯電話で話している。ガムをかんでいるらしく、クチャクチャとウルサイ。下品な言葉がポンポン出て来る。それは田中梅子のカバンをひったくったコギャルだった。
哲は臆面もなく、コギャルに近づいた。コギャルはケータイに夢中で、哲の存在に気づかない。それでも哲はじーっとコギャルを見つめているだけだ。やっとコギャルが気がついた。
「何だよ。文句あんのか」
「コ、コノアイダワ、ゴメンナサイ、デス」
「ハ?」
コギャルはケータイの声に応答した。
「あ、いや、何でもねーよ。どっかのバカがアタシを見てただけさ。じゃーね」
ケータイを切るとコギャルはガムを吐き捨てて行った。哲が追う。
「チョット、マ、マッテ、クダサイ、デス」
「何だよ」
振り向くコギャルに、哲はしり込みせずにキッパリ言った。
「ガ、ガムワ、チャント、カミニ、ツツンデ、ステテクダサイ、デス」
「ウルセーな」
さっさと行こうとするコギャルの腕を哲がつかんだ。それを見てコギャルは強く振りほどいた。
「てめーにゃ関係ねーだろ」
「ボ、ボクワ、タダ、コナイダノコト、アヤマリタカッタ、ダケデス」
「だったらアタシのすることにいちいち文句ゆうんじゃねーよ」
「デモ、ヤッパリ、ガムワ、カミニツツンデ、ステテクダサイ、デス」
「ハ?」
哲の尋常でない口調に、コギャルはイライラしていた。いつの間にか、周囲の視線が哲とコギャルに集まっていた。ほとんど中高年や婦人たちである。近頃の少年少女たちのしぐさ、行動について文句を言いたそうな大人たちだ。口ではなかなか言えないので、それを哲が代言しているようなものだ。だからこそスカッとするような瞳の色に感じられた。
いたたまれなくなってコギャルはガムを捨てた場所へ戻り、ティッシュで拾った。近くにあったごみ箱へ捨てる。それを哲は見ていた。
「これでいいだろ。だからさっさと消えちまいな」
吐き捨てるようにコギャルはさっさと離れて行った。哲はまだ何か割り切れてないような気持ちだった。よせばいいのに、コギャルのあとを追いかけた。そのことに気づいてコギャルが振り向く。
「何だよ。まだ何か文句あんのかよ」
「ヒ、ヒトツ、キ、キイテイイデスカ」
「何だよ」
コギャルは面倒くさそうに哲をにらんだ。
「ド、ドーシテ、カオガ、ク、クロイ、デスカ」
「……ハ?」
バカバカしい質問だと思った。
「バッカじゃねーの。黒がいちばんカワイイからさ」
「ソ、ソーデスカ。ヨク、ワカリマシタ、デス」
「ハ?」
リズミカル的でない会話に、コギャルはまたもやイライラした。哲は急に何か思い出したらしく、
「ア!」
「な、何だよ」
「ワ、ワスレテマシタ。ボ、ボク、テッチャン、デス。ヨロシクオネガイシマス、デス」
「誰もてめーの名前なんか聞いてねーよ。じゃ、ね」
コギャルは背を向けようとした。
「マ、マッテクダサイ、デス」
「何だよ。ウルセーな」
「ボ、ボク、テッチャン、デス」
「さっき聞いたよ。だから何なんだよ」
「ダカラ、ナマエ、オシエテクダサイ、デス」
「なんでアタシがてめーに名前を教えなきゃならねーんだよ」
「ボ、ボクタチ、トモダチニナリタイ、デス。ダカラ、ナ、ナマエヲシルコトガ、タ、タイセツ、デス。ダカラ」
「友だちだって?!」
哲がしゃべり続けるのをコギャルが止めた。
「ハン、冗談じゃねーよ。誰がてめーみたいなバカと友だちなんかなるかよ。どうせなら人形と友だちになるんだね。リカちゃん人形を相手にした方がお似合いだと思うね」
「リ、リカチャン、デスカ。ヨクワカリマシタ、デス。コレデ、ボクタチワ、トモダチ、デス。リカチャン」
「てめー、人の話をちゃんと聞いてんのか。誰がリカちゃんだ。アタシはシホ。リカなんかじゃねー」
「ア、シホチャン、デスカ。コレカラヨロシクオネガイシマス、デス」
はめられたと思ったコギャルの高和志歩は、いよいよ怒りを爆発させた。
「てめー、アタシをバカにしてんのか」
「バ、バカニシテマセン、デス」
「うー」
にらむだけにらんだが、これ以上相手にしてもムダだと思った志歩はあきらめの口調で、
「てめーにゃかなわんよ。ウンザリだよ。これ以上アタシに近づくな。わかったらさっさとどっかへ行っちまいな」
「ハイ、ワカリマシタ、デス。シホチャン、マタ、アエマスカ、デス」
「……ハ?」
志歩は頭が痛くなってきた。相手を振り払う動作で、
「わかった。わかったから」
「ソ、ソレジャ、サ、サヨナラ、デス」
哲は勢いよく頭をさげると、さっさと離れた。
その夜――
高和志歩は自分の家に帰った。ただいまも言わず、無言で二階への階段をのぼる。
「志歩か」
声をかけたのは父親だった。
「いったい今何時だと思っているんだ。それに、ただいまくらい言えないのか」
時刻は十時を過ぎていた。志歩はシカトする。
「志歩!」
父親の怒鳴り声を聞き流しながら志歩は階段をのぼり切った。それを見あげながら父親は苦い顔をしていた。
自室へ入った志歩は肩から提げていたスポーツバッグを放り投げると、ベッドへ腰かけた。制服のまま、寝ころぶ。
「あいつ、テッチャンとか言ったな。バカのフリしてアタシをナンパしようったって、そんな手には乗らんからね」
ドアにノックがあったが、志歩は知らん顔した。ドアを開けて入って来たのは、さっきの父親だった。
「何だ、その格好は。きちんと座ったらどうだ」
それでも志歩は知らん顔のままだ。たまりかねて父親はベッドのわきに来た。志歩の腕を取って起こそうとする。
「何すんだよ」
「ちゃんと俺の話を聞け」
「てめーの話なんか聞く耳持たねーよ。クソオヤジ」
「何だ、その口のきき方は。それが親に向かっていう言葉か」
父親の手を強く振りほどいた志歩はミニスカートなのにベッドの上であぐらをかいた。また父親が怒鳴る。
「何だ、その座り方は。きちんとひざをそろえて座らんか」
「ウルセーな。てめーの指図なんか受けねーよ」
「志歩!」
いきなりビンタが飛んだ。左のほほをぶたれた志歩はキッと父親をにらみ返した。
「出て行け! ここはアタシの部屋だ。出て行けよ!」
志歩は強引に父親の体をドンと押し出した。父親はなすがままにされるだけだった。あっという間にドアの外へ追い出された。ドアが乱暴に閉まる。父親はもう一度呼びかけようとしたが、思いとどまって階段を降りはじめた。
ドアに背中を押しつけた格好で、志歩はそのまま腰を落とした。ぶたれたほほが痛むのか、手のひらをあてていた。よほど痛かったのか、泣き出した。
翌朝、父親は朝食の準備をしていた。その台所を志歩が通りすぎる。
「志歩、トーストの一枚くらい食べて行ったらどうだ」
それでも志歩は知らん顔のまま、玄関へ向かった。外は風が冷たかった。志歩の服装はマフラーや手袋、ダッフルコートを着けているが、ミニスカートは素足である。見ていて寒そうだ。
「ハラ減ったな。コンビニで何か買って食べるか」
小銭を出して確認する。
「これじゃ、オニギリ一コか二コってとこかな」
志歩は小銭をポケットにしまいながらつぶやいた。
「やっぱ<狩り>に行かんとな」
狩りとはひったくりのことである。
志歩の通学は電車でY駅に行き、そこからバスで行く。学生だから学割の定期券(一年分)である。しかし、学校へはほとんど行ってなかった。このY駅周辺でブラブラするのが日課となっていた。金がなくなると、<獲物>を探すこともある。が、今日に限ってか、これといった目あてが見つからず、志歩は歩きまわるのをやめた。くたびれたので、駅内の階段に座り込んでしまった。恥も他人の視線もマナー意識も何もあったものではない。
こういった少年少女たちが最近見かけるようになった。<ヨソさま>意識がなくなり、どこにでも座り込むジベタリアンが増えている。また、無機的な人間関係の中、<獲物>はヨソ者だから何のちゅうちょもなく、万引の延長のような遊び感覚でひったくりさえも楽しむようになった。日本は古来<恥の文化>だったのだが、それも消えてしまったようだ。犯罪にさえつながる少年少女たちに、大人たちはとまどっているのだろう。
志歩は何時間も階段に座っていた。ふと何か思いついたのか、急に立ちあがって歩き出した。周辺のデパートの中へ入って行った。食品売場ではバレンタインデーコーナーがにぎわっていた。
「バレンタインデーか……」
志歩にとって苦い思い出があった。二、三年前の中学時代のことだ。どこにでもいる普通っぽい少女で英語が得意だった。授業の一環で、志歩は国際文通を始めるようになった。相手はアメリカの男子中学生で黒人だった。絵が得意で画家を目指していると言う。
そんなある時、日米親善交流の目的でアメリカの学校側から何人かが留学して来た。その中に志歩のペンフレンドもいた。一緒に授業を受けたり、交流を続けたりしているうちに、こんな会話があった。美術の時間、顔料(絵の具)を使って絵を描いている時のことだった。
(コレ、何色?)
(これはね、肌色っていうんだよ)
(ハダイロ……? ノー。こんな色、アメリカにはないヨ)
(え?)
(どうしてハダイロというの?)
(そ、それは……)
(ボクのハダは黒いヨ)
(そりゃわかってるけど)
(黒人ならクロをハダイロというの? 白人ならシロをハダイロというの? そんなの、おかしいヨ。差別だヨ)
志歩は何も言い返せなかった。考えてもみなかったことだった。色ひとつだけでも差別だなんて……
それ以来だった。志歩がガングロに変身したのである。実を言うと、その黒人学生に恋に似た感情を抱いていたのだ。肌色についての会話以来、ふたりは気まずい仲にあった。
そして留学期間が終了する日、志歩は意を決してバレンタインチョコを贈った。ちょうど二月でもあり、またせん別の意味も含まれていた。
だが、志歩の変身を快く思っていなかった黒人学生は受け取らなかった。そもそも日米のバレンタインデーの意味がちがうのだ。日本の場合はチョコレートの商売競争に乗っ取ったイベント的習慣だが、アメリカにはそういう習慣はない。恋人、あるいは夫婦、お互いに贈りものをするだけだ。日本のように女性から一方的に男性に義理でも本命でもチョコレートを贈るのは、世界広しと言えども日本だけのようである。
失恋とともに文通も途絶えてしまった志歩に、さらに家庭の不幸が襲った。平凡だった両親が離婚したのだ。原因は父親の浮気だった。激しい夫婦ゲンカのあと、とうとう離婚するに至ってしまった。
女手ひとつで育てるのは大変だからと、志歩は父親の方へ引き取られた。本当は母親の方がよかったのだが、当時の志歩はまだ父親に反発できるほど強くはなかった。
母親と別れた父親は今でも浮気の相手と逢っているらしい。肌色の差別とバレンタインと両親の離婚……
そんな場面が志歩の脳裏にまわっていた。いつしか両の目からひと粒流れるものがあった。なんでこうなってしまったんだろうという後悔に似た念が志歩の涙腺をゆるめさせたのかも知れない。
志歩はデパートの中、休憩コーナーに腰かけていた。周囲の誰もが志歩の様子に注意を払わないまま、通りすぎて行くのみだ。まるで志歩のいる空間だけが、まわりと遮断されてしまったかのように……
「君、ちょっと我われと来たまえ」
突然、ダミ声が志歩の耳を打った。同時に太い腕が志歩の腕をつかむ。中年の警備員だ。
「な、何するんだよ」
「騒いでもムダだ。集団万引の仲間だろう」
「何だって?! アタシ、そんなんじゃねーよ!」
周囲の視線を浴びる中、志歩は強引に警備員に連行された。まったく身におぼえのないことだった。今日このデパートでは万引のひとつもしてないのだ。警備員や従業員の話によると、女子高生グループによる集団万引が連続的に発生していると言う。今までより厳重な見張りをつけたところ、志歩を発見したというわけだった。
「アタシ、そんな人たちのこと知らないよ。アタシはひとりで来たんだ。ぬれぎぬだよ!」
志歩は何度も弁明した。だが、大人たちは耳を貸そうともしなかった。志歩の格好が大人たちの心情を悪くしているのだ。それは偏見と先入観と差別の視線だった。
「ひどいよ。そんなの、ブジョクだよ」
志歩は泣き出してしまった。それでも大人たちは冷たい。
「そんな手にはもう乗らんぞ。そうやって泣いて反省しているフリだけで、本気で反省しとらんだろう!」
大きい声で怒鳴る大人たちに、志歩は本当に怯えていた。
「ひどいよ。みんなでイジメて……アタシ、無実なのに」
志歩はシクシク泣き続けていた。決して芝居ではなかった。
やがて監視カメラの録画テープが再生された。それによって志歩の無実が証明された。しかし、大人たちは詫びようともしなかった。
「ちょっと、ひとこと謝ったらどうなんだよ。アタシが無実だとわかったんだから、おわびのひとつくらい聞きたいね」
「……悪かった」
苦にがしく言う大人たちに対して、志歩の怒りが爆発した。
「心から本気で謝っているつもりかよ。こんなんだから大人なんて大嫌いだ!」
それこそ志歩の本心だった。第三話の長瀬久美子と境遇はちょっとちがうが、やはり大人に対する嫌悪と不信感から、少年少女たちは様ざまな<自己表現>をしていたのだ。志歩の場合、浮気のために家庭を不幸にした父親への反抗のために、ガングロに変身したようなものだった。
やり場のない怒りと悲しみをぶつける術もわからないまま、少年少女たちは自分の本当の<居場所>を探し続けているのかも知れない。たとえば友だちと一緒だったり、恋人と愛を語らい合ったり、優しい両親に包まれていたり、ホッとできるような場所、あるいは空間を見つけるために、さまよい歩いているのだ。それは<第二の故郷>と言ってもよかった。
志歩は<愛>に飢えていた。優しかった母親に会いたくて仕方ない。どこにいるのか、わからない。元気でいるのか。倖せでいるのか――
「もう、このデパートなんか二度と来てやるもんか」
ようやくデパートを出た志歩は、Y駅周辺の雑踏の中を歩いている時、ふいに人の肩にぶつかってしまった。
「おいネェちゃんよ。オレとぶつかっといてダマッて行くつもりかい。詫び料として十万払え。それができなきゃ、その体でもいいんだぜ」
人相のよくない二十代のチンピラだ。二、三人連れ立っている。今日は大凶の日じゃないか、と志歩は思った。
「ウェヘヘヘヘ、た、食べ頃じゃねーか」
チンピラは志歩のからだ全体を眺めまわしていた。チンピラたちは志歩を取り囲むようにして歩き出した。もうどうなってもいいや、と志歩はなかばあきらめていた。逃げようと思えばできるのだが、朝から何も食べてなく、それにデパートのことで身も心も疲れていた。
動物園のある公園、誰もいない森林浴場へ連れて行かれた。チンピラたちはもはや獣と化していた。
「ウェーッヘヘヘヘ」
チンピラの手が志歩の胸を触ろうとする。と、その時だ。
「シホチャンニ、ナ、ナニスル、デスカ!」
突然現れたのは何と橋本哲だ。単なる偶然か、タイミングのよすぎた出現だった。
「何だァ、テメーワー?!」
「シホチャン、ニゲテクダサイ、デス!」
「テ、テッチャン……あんた、テッチャンなの?」
「ハイ、デス。ボク、テッチャンデス」
チンピラのひとりが哲を蹴った。
「イ、イタイデス」
「テメーふざけんじゃねー! それともマジにパーかよ」
哲は思い切り体あたりした。チンピラふたりが吹っ飛ばされる。そのスキに哲は志歩の手を取って一気に走った。
「ニゲマス、デス。シホチャン」
「う、うん」
なぜかこの時ばかりは素直に返事した志歩だった。手を取り合い、ただ無我夢中で逃げ続けていた。追っ手から逃れるために、よほどあわてたのか、ふたりはバスに乗ってしまった。
「あれれ、このバス、どこへ向かうバスなの?」
「ワカリマセン、デス」
哲のテンポのズレたセリフに志歩は思わず吹き出した。
「……プッ」
そして笑ったのだ。心から思い切り笑ったのは何年ぶりだろう。顔は黒くても、かわいい笑顔だった。哲はただポカンとしていた。
「アハハハハ……わ、笑いすぎて、は、腹が痛いや」
「タ、タベスギ、デスカ」
「プハハハハ」
とうとう下品な笑い方になってしまった。
「ところでテッチャン、なんで?」
ようやく笑いをおさえた志歩は真顔で訊いた。
「なんで公園にいたの」
「ボ、ボク、マタ、シホチャンニアイタクナッタカラ、デス。ダカラ、アルキマワッテ、ヤット、シホチャン、ミツケマシタ、デス。ソシタラ、ワルイヒトタチニ、ツレテイカレルノヲ、ダマッテミテイルワケニワ、イキマセンデシタ、デス」
「テ、テッチャン……」
文章になってない言葉でも、志歩は嬉しさでいっぱいだった。なぜかはわからないが、とにかくあぶないところを助けてもらったのだ。
「あ、ありがとう。テッチャン」
「ハイ、デス」
こんなに素直になれ、お礼も言えた今の自分を、志歩は長い間忘れていたのかも知れなかった。もう一度やりなおしたい、と心から本気で思った。あるいは哲の存在によって、心が洗われていくようにも感じられた。
「ね、テッチャン、次の停留所で降りよう。このままだとアタシたち、本当に迷子になってしまうよね」
「ハイ、デス」
次のバス停留所で志歩と哲は降りた。
「あ〜ぁ、これでアタシの全財産がなくなったわけか。どうやって帰ろう?」
哲も少しお金を持っていたが、帰りのバスに乗るには足りなかった。車道の反対側へ渡って、帰るためのバス停留所を探している時、志歩はふと声をかけられた。
「……志歩?」
ドキン、と志歩の胸が高鳴った。それはあまりにもなつかしい声だった。
「ま、まさか……」
志歩は声のした方へ振り向こうとした。ゆっくりと……
「やっぱり、志歩だったのね」
「お、お母さん!」
それは志歩の母親だった。志歩は自我をおさえることができず、なつかしさのあまり、母親の胸へ飛び込んで行った。
「お母さん……」
一週間後――
橋本哲はあいかわらずY駅周辺を歩いていた。高和志歩を探すためだった。一週間前、志歩が偶然にも母親と再会した。降りた場所が、たまたま母親の住居に近かったのだ。それ以来、こつぜんと見かけなくなったのである。それでも哲は探し続けていた。
ふと、ポン、と肩をたたかれた。振り向くと、かれんな女子高生が立っていた。哲はじっと見つめたが、わからなかった。
「ダ、ダレデスカ」
「えへへへ、わかんない?」
「ア!」
哲が思い出したように叫んだ。
「シ、シホチャン、デス」
それはまぎれもなく、素顔の高和志歩だった。色白でかわいい少女だ。ガングロよりもっとかわいい。もちろん、髪の毛は黒である。
「アタシね、お母さんと暮らすことになったんだ」
「ソ、ソレワ、ヨカッタ、デスネ」
どんな事情なのか知りもしないくせに、哲は心から喜んでいた。
「ちゃんとマジメに学校に通うし、アタシ、もとのすなおな女の子になろうとがんばってるよ」
「オ、オーエンシテマス、デス」
「時どき、この街にも来るから、テッチャン、会ってくれるよね」
「モ、モチロンデス」
ふたりは笑い合った。
「あ、そうだ。テッチャン、手を出して」
「コー、デスカ」
右手を出した哲に、志歩は何かを渡した。きれいに包装された細長い小箱で、それは<バレンタインチョコ>だった。
「義理チョコだけど、アタシのほんの気持ち」
「ア、アリガトウゴザイマス、デス」
哲は頭をさげた。よっぽど嬉しかったのだろう。甘いものには目がない哲であった。
志歩は、父親にもチョコレートを渡してやろうと思った。今までのおわびと、ひとり暮らし同然の父親に対する罪ほろぼしの意味も兼ねて……
「じゃーね、テッチャン。バイバイ」
「ハイ、サヨナラ、デス」