DOLL/第四話

家族って何ですか

 歳末――
「ほら起きて。朝だよ。きょんちゃん」
「う、う〜ん」
 平常とかわらない朝の風景、野村明日香のむらあすかは二階の姉・今日子きょうこの部屋に来て起こしているところだった。が、今日子はなかなか起きようともしない。
「サ、サム〜イ」
「何言ってんだよ。お仕事に遅れるでしょ」
「あっちゃんはいいなぁ。もう冬休みなんだから」
「冬休みは冬休みでもあたしにとって中学最後の冬休みだし、受験勉強もクライマックスなんだよ。それに今世紀最後でもあるし」
「それよ、それ。年がかわるとか、世紀がかわるとか、どーもピンとこないのよねぇ」
「そんなこたぁどーでもいいから早く起きて。ごはん、冷めちゃうよ」
「ヘーヘーわかりました。明日香さま」
 しぶしぶ起きあがった今日子は、赤のパジャマを着ていた。
「う、うーん」
 あくびをしながら大きく伸びをした。カーテンを開ける。まぶしい朝陽が部屋全体に射し込んだ。早速パジャマを脱ぎ、着替え始めた。出勤支度を済ませると、階段を降りた。キッチンから朝食のいいにおいが漂ってくる。明日香が準備しておいたのだ。食卓の席に着く。ふたりは手を合わせた。
「いただきます」
 食卓を囲んで黙もくと食べるふたりの姉妹、それがこの家での日課であった。たったふたりだけになってしまった家族でもあった。
「ごちそうさま」
 食事をおえた今日子は食卓から離れると玄関へ向かった。
「あ、きょんちゃん、ママに行ってきます、は?」
 明日香が呼び止めると、今日子はバツが悪そうに戻った。
「ハイハイ」
「ハイは一回!」
「ハイ」
 そんなやりとりで今日子は仏壇の前に正座した。リンを鳴らして合掌する。
「行って来ます。ママ」
 亡き母の写真を見つめながら今日子は、立ってまた玄関へ向かった。クツをはいていると、明日香がキッチンから顔を出した。今日子は振り向く。
「それじゃ、行って来るね」
「うん、行ってらっしゃーい」
 明日香は両手を振った。今日子はほほ笑みながら扉を開け、出て行った。明日香は朝食のあと片づけを済ませると、自分の部屋へ入った。
「さて、あたしも勉強、勉強。がんばらなくちゃ」

 冷たい風の中を歩く今日子は、去年の四月に就職したOLで二十歳はたちである。自宅のあるこの街からは電車で通勤しなければならないので、駅に向かって歩いていた。その途中に、いつから始まったのか、道路工事があった。仮歩道という案内板や矢印があるので、それに従う。ふと、自分を呼ぶ声が聞こえた。
「おい、野村さん」
 ハッとして足を止めた今日子は周囲を見まわした。だが、何人かすれちがったり、通りすぎたりしているだけで、誰も今日子を呼ぶ者はなかった。
「なぁ、オレたちで忘年会やろうぜ。今夜一杯どぉだ。な、野村さん」
 ひときわ大きい声が聞こえたので、今日子は工事現場にいる労働者たちを観察した。野村と呼ばれた四十代半ばの男が三、四人の仲間たちに囲まれて談笑していた。野村らしい男が言う。
「いや、俺は酒をやめたんだ。忘年会はあんたたちだけでやってくれ」
「何水くさいこと言ってんだ。どうせ明日から冬休みなんだし、オレたちゃ帰省するだけだ。男の楽しみと言えば酒と女だぜ」
「悪いが、俺は酒もタバコもやめたんだ。ごめんな」
 野村は仲間たちの誘いを断って、仕事に没頭した。そんな様子を今日子は見つめていた。その表情は何か驚いたようだった。土木用ヘルメットをかぶっていて素顔がよくわからなかったが、その面影に見おぼえがあったのだ。
「ま、まさか……」
 そういう声がもれそうになった。ふと、野村もその視線に気づいて今日子の存在を認めた。ギクッとして今日子は横向いてさっさとこの場を離れた。そんな若い娘の行動に何の気も止めないふうの野村だったが、ハッと思いあたった。
「まさか、今のは、きょん……?」
 と、その時、あやまって右手からシャベルがすべり落ちた。地面に落ちる寸前、左手でつかまった。野村は自分の右手をいぶかった。まるで感覚が急になくなったようだ。小刻みに震えている。仲間のひとりが気づいて声をかける。
「おい、野村さん。どうしたんだ」
 とたん、野村は頭をかかえた。頭痛なのか、苦しそうだ。たちまち野村の体が倒れた。
「おい、野村さん!」

 約二時間後、明日香の家に電話が鳴った。
「ハイ、野村です」
『あ、失礼ですが、野村道雄みちおさんのお宅ですか』
 男の声だ。
「え、野村道雄……?」
 この名前に記憶があった。父の名前だ。だが、亡き母や姉からは自分が幼少の時に亡くなったとしか聞いてない。
「あ、あの、父の名前ですけど、あの、父はあたしが小さい時に亡くなっているんです。だから、人ちがいじゃないでしょうか」
『もしかしたら、今日子さん、あるいは明日香さんでは』
「あ、あたし、明日香ですけど」
『あ、明日香さんですか。詳しいことはあとにして、今すぐ出て来れますか。野村さんは今、D大学附属病院に入院しています。あ、オレ、野村さんと同じ会社の竹原たけはらという者です。それじゃ、たしかに連絡しましたよ』
 一方的に電話が切られた。
「あ、あの、もしもし……」
 何度も呼びかけたが、返事はなかった。明日香は今の電話の内容を考えた。死んだと思っていた父親が入院……?
 何が何だかわからないが、とにかく病院へ出かけてみようと、明日香は勉強を中断して外出する用意を始めた。
「そうだ。きょんちゃんにも連絡した方がいいかな」
 明日香は携帯電話ケータイで文字のメールを送る操作をした。
《きょんちゃんへ。D大学附属病院へ出かけます。お仕事がおわったら連絡ちょーだい》
 玄関に鍵をかけ、自転車に乗って病院へ向かった。約四十分後、病院に着いた。受付に問い合わせようとすると、ロビーから声をかけられた。三十代後半の男だ。
「野村明日香さん? 竹原です」
「あ、あの、どういうことなんですか。何かのまちがいじゃないですか」
 竹原は先に立って歩き出した。病室を案内すると言う。エレベーターに乗り、あっという間に二階に着いた。白い廊下を五、六歩行った先が、野村道雄の病室だった。竹原がドアを開ける。野村は意識不明で眠っていた。その顔を明日香は見つめた。
「どうかね。お父さんにまちがいないかね」
 竹原が訊くと、明日香は自信なさそうに首を横に振った。
「わ、わからないんです。あたし、父の顔をあんまりおぼえてないんです」
「それじゃ、これなら思い出せるかな」
 竹原はふところから一枚の写真を取り出して明日香に見せた。かなり古いもので若い頃の父と母、幼い姉の今日子、そして母の両腕に抱かれた赤ん坊の明日香が写っていた。母や姉はわかるが、父については、白い霧がかかったように何も思い出すことはできなかった。
「野村さんは脳卒中です。早いうちに手術をした方がいいと医者が言っています。でもそれには家族の同意が必要で、手術承諾書に住所氏名、それに判がなければ行なわれないそうです」
 竹原の説明を聞いているのか、明日香はただ野村の寝顔を見つめているばかりだった。
「明日香さんは高校生?」
「あ、いえ、中学三年生です」
「あ、悪かったね。入試で大変だろ。でも家にはほかに誰もいなかったの?」
「姉は仕事で、母は二年前に亡くなりました」
「そう。それじゃ、家に帰ったらお姉さんと相談してください」
「あ、あの」
「ん?」
 明日香は一度竹原を見てから、また野村の寝顔へ視線を戻した。
「父はどこに住んでいたんですか」
「この近くのアパート」
 竹原はメモに住所を書いて、明日香に渡した。
「これ、野村さんの住所。オレも同じアパートに住んでいるよ」
「竹原さんは、父と知り合って長いですか」
「いや、野村さんが今の会社に入ったのは、たしか一年くらい前だったと思うよ。ま、会社ではオレが一番親しかったんだがね」
「それじゃ父は竹原さんに、家族のことや過去のことを話したんですね」
 明日香は写真を見ながら尋ねていた。
「そんなに詳しいことは聞いてないよ。ま、そんなことは君たちの問題だと思うから、他人のオレがとやかく言う筋合いはないね」
 竹原は片手をあげた。
「それじゃオレ、帰るワ。お大事に」
「あ、お手数をおかけしました」
 明日香は頭をさげた。竹原がドアの向こうに消えると、住所のメモと野村の寝顔を何度も見くらべていた。たしかに幼い頃、父がいたことはおぼえているのだが、それがいつの間にか煙が消えるように、ふっといなくなったのだ。
(ねぇ、パパはどーしたの)
 何度、その質問を母や姉にぶつけたのだろう。いつも仕事で遅く帰る父のために敷いていた蒲団を、母が敷かなくなったのはいつからだったろう。
(ねぇママ、パパのおフトンがまだしいてないよ)
 明日香の遠い記憶には、泣き顔の母しか浮かばなかった。どんな事情があったのか、今の明日香には知る由もない。
 ふいに明日香のケータイが着信を知らせる振動を起こした。病院であるからベルをバイブレーションに切り換えておいたのである。ケータイを見ると今日子から文字のメールが送られていた。いつの間にか、夕方の五時半になっていたのだ。
《あっちゃんへ。病院って、どーしたの。具合でも悪かったの? わたし、病院へ行こうか。それとも家に帰った方がいい? 何だかわからないけど連絡ちょーだい》
 明日香は病室を出た。階段を降り、ロビーを通って病院を出るとケータイを使った。
「もしもし、あたし」
『あ、あっちゃん? どうしたの』
「あたしは別に何ともないけど、ただ……」
『ただ、何』
「きょんちゃん、よく聞いてよね」
『うん、ちゃんと聞いてるよ』
 明日香は深呼吸した。
「入院したのはパパなんだよ」
『……え?』
 電話の向こうで今日子は絶句していた。
『まさか、あっちゃん、冗談はやめてよ』
「冗談なんかじゃない!」
『ちょっとあっちゃん、大きい声出さないでよ。耳がこわれるじゃない』
「あたし、何が何だかわからない……」
 明日香は泣き出してしまった。頭の中が混乱しているのだ。
『あっちゃん、とにかく帰って来て。ね』
「入院してるの、パパなんだよ。きょんちゃん、会いたくないの?」
『………』
「きょんちゃん?」
 応答がないので明日香は呼びかけた。
「きょんちゃん!」
『わたしは会わない。いいからあっちゃん、帰ってらっしゃい』
 冷たい口調だ。明日香がまた話しかけようとしたところで、電話が切られた。
「きょんちゃん、なんで切るのよ」
 泣いたり怒ったり、と明日香の表情は複雑で忙しそうだ。外はすっかり暗くなっていた。
 自転車に乗り、ライトを点けて走り出す明日香の胸中は、死んだとばかり思った父についての疑問を、今日子にぶつけるつもりでいっぱいだった。あまりケンカすることなく、いつも仲が好く、肩寄せ合って生きてきた姉妹だった。この世でたったふたりの姉妹だった。また家族でもあり、かけがえのない存在でもあった。もしかしたら父の疑問をめぐってケンカになるかも知れない。
 そう考えながら明日香は、冷たい風の中を自転車で走っていた。やがて自分の家に帰り着いた。玄関を開けたが、ただいま、とは言わなかった。その音で今日子が出迎えて来た。
「お帰り、あっちゃん。寒かったでしょ。お夕飯の支度できてるよ」
「………」
「あっちゃん?」
「きょんちゃん、本当のこと教えて」
「………」
「パパのこと、どうして嘘ついてたの」
 何もこたえられず、今日子はうつむいた。その両肩を明日香がつかむ。
「きょんちゃん!」
 すると今日子は明日香の両手を振りほどいた。
「嘘ついたのは、ごめんなさい。でも、これ以上<あいつ>のことは聞かないでちょうだい」
「……あいつ?」
 明日香は自分の耳を疑った。
「パパのことをあいつだなんて呼ぶの、きょんちゃん?」
「あっちゃん、今はそれどころじゃないでしょ。あいつのことなんか忘れて勉強に精出すべきでしょ」
 今日子の態度が急にかわった。いつも優しそうなほほ笑みを浮かべながら話すのに、腹立たしそうな口調になっていた。それでも明日香は納得しようとしない。
「でもあたし、知りたいんだもの。パパの娘だもの。知る権利だって、当然あるはずでしょ!」
 明日香は泣きわめいた。
「パパはね、脳卒中だって」
 それを聞くと、今日子の表情に変化があらわれた。が、無言のままだ。たまらなくなって明日香は叫ぶ。
「きょんちゃん、黙ってないで、何とか言ってよ!」
 うつむいていた今日子の顔が明日香に向いた。毅然きぜんとした表情だ。
「……わかった」
 どうやら話す決心がついたようだ。
「そんなに知りたければ教えてあげる。あっちゃん、もう十五歳だものね。でも覚悟はできてる? どんなことを聞かされても」
 明日香はゆっくりうなずいた。今日子は深呼吸してから話し始めた。
「あいつはね、わたしたちを捨てたのよ」
「……え?」
「今で言えば<愛人>と言うのね。その女の人と駆け落ちしたのよ。ママとわたしたちふたりの娘がありながら、あいつはわたしたちより愛人の方を選んだわ」
 それは怒りというよりは憎しみの口調だった。
「それでもママはあいつが絶対戻ると信じながら毎日毎日食事の用意をしたり、お蒲団を敷いたり、戻って来ないあいつを待って、待って、待っていたのに……」
 ふたりはいつの間にか食卓に着いていた。
「ママは内職を持っていたから、わたしたちの生活は困らなかったけど、でもずーっと内職だけではやっていけなくなって、やっぱり勤めを探さなくちゃならなくなったの。ママ、体があまり丈夫じゃないのに、わたしたちを育てるために、ずいぶん無理して働いてくれたわ」
 話しながら今日子の体は震えていた。悲しみのために心も体も震えているのだ。だが、涙は出なかった。いや、出すまいと踏ん張っているのだ。それは弱さを見せたくないのではなく、父に対する憎しみの方が大きいからだった。
「わたしだって、あいつがきっと帰ると信じて、アルバイトもやったのよ。でもやっぱりあいつは帰って来なかった」
 今日子は明日香を見やった。真剣に聞いたせいで、明日香の両目から涙があふれていた。
「あっちゃん、あなたはまだ小さかったから、遠い星の世界へ行ったんだって、嘘ついてしまった。それでもわたし、信じたのよ。絶対帰って来るって!」
 とうとうこらえきれず、今日子の目からも滝のように涙が流れた。
「だからママが体をこわして寝込んでしまった時、わたし、心の底からあいつを憎むことにしたわ。許すもんか、ってね。わたしたちがこんなに苦労してるのに、あいつはどこかで幸福に暮らしているにちがいない。そう思うと、本当に悔しくて憎かったわ。殺してやりたいくらいに!」
 今日子は怒りと憎しみをぶつけるように叫んだ。
「あいつが脳卒中だって? いい気味だわ。身から出たサビよ」
 それは明日香にとって意外な言葉だった。普段穏やかでほほ笑みを絶やさない今日子に、こんな一面もあったなんて……
 まったくはじめて聞く話だった。死んだと思っていた父のことも、そして姉の複雑な心中のことも、十五歳の胸にはあまりにも強烈すぎた。
「これでわかったでしょ。あいつがどんな人間だったのかを」
 今日子は明日香を見た。明日香は思い切り泣いていた。泣きながら何かうったえようとしている。
「でも、それでも、あたし、パパに会ってみたい。きょうはパパ、眠ってたからお話はできなかったけど、それでもあたし、パパとお話がしたい」
「あっちゃん、まだわからないの。あいつはもう、あなたのことおぼえてないのよ、きっと」
「おぼえてなくたっていい。それでもあたしはパパとお話をしたいんだもの」
「あっちゃん!」
 いきなりビンタが飛んだ。今日子が明日香のほほをぶったのだ。突然のことでもあり、またはじめてのことでもあった。
「きょ、きょんちゃんのバカァーッ!」
 いきなり叫んだ明日香は、食卓から離れて階段を駆けのぼった。今日子の声が追いかける。
「あっちゃん、ごめん……」
 二階で明日香が部屋を開閉する音が響いた。階段の下で見あげていた今日子は、ただ茫然と立っているだけだった……

 翌朝――
 泣きぬれながら眠ってしまった明日香は、ベッドの中で夜明けを迎えた。下のキッチンから準備しているらしい音が聞こえる。
「きょんちゃん、朝ごはんの用意してるんだ。そう言えばあたし、ゆうべは食べてなかったな」
 それでも明日香は起きようともしなかった。やがて階段をのぼってくる足音が聞こえた。
『あっちゃん、起きてる?』
 明日香は返事しようとしなかった。しばらく気まずい沈黙が続いた。
『じゃあ、わたし、行って来ます。きょう、今年最後の出勤だからいつもより早く帰れるかも知れない』
「………」
『……じゃあ、行って来ます。あっちゃん、きのうはぶったりして、ごめんなさい』
 それからまた階段を降りる足音がした。玄関を開ける音もする。ようやく明日香は飛び起きた。カーテンを引き、窓を開ける。遠くに、うしろ姿の今日子が見えた。
「きょんちゃん、あたし、パパの病院へ行くから!」
 その声を聞いた今日子は振り向いた。が、それより早く明日香は窓を閉めてしまった。それを見て、今日子の気持ちがまた重くなった。
 階段を降りた明日香は、冷蔵庫からゆうべの残りを出して食卓に並べると食事にかかった。
「絶対パパに会ってやるから」
 執念に似た言葉が明日香の口から出た。こんな気持ちでは勉強する気など起こらない。早いとこ食事を済ませてあと片づけのあと、すぐ出かけたい衝動に駆られていた。ふと食べていると、左側の歯がうずくのを感じた。
「何だか痛いな。歯周炎かな」
 そう言えばゆうべのビンタのあたりだ。
「きょんのやつめ。思いっきりひっぱたいてくれちゃって……」
 ズキズキ痛むので食事を中断して冷蔵庫に戻した。ごはんはお茶漬けにして一気に食べた。
 あと片づけのあと、丁寧に歯をみがいた。おえると、念のためキシリトールガムをかむ。最初は痛むが、慣れると痛みも感じなくなる。ガムをかんだまま、階段をのぼって自分の部屋へ戻った。着替え始める。外は寒そうだ。セーターとジーパン、マフラーと手袋、ダッフルコートを着込んで家を出た。自転車に乗る。目指すは病院である。

 明日香はD大学附属病院の白い廊下を歩いていた。やがて病室の前に来た。標札には野村道雄と書かれている。胸中がドキドキしていた。足も震えてしっかりしてない。もしもパパが、あたしをおぼえてなかったらどうしよう……
 だがそんな考えは吹き飛んだ。なぜなら、きのう連絡してくれた竹原から渡された写真を思い出したからだ。この写真を肌身離さず持っていたと言う。そんな人が家族を捨てたのにはきっと事情があるのだ。
 明日香は深呼吸をした。ノックを三回する。
『ハイ』
 返事が来た。明日香はノブに触れ、まわし、おそるおそる開けた。
 ベッドの上で身を起こしている野村の寝巻姿が目に映った。ドアをうしろ手で閉める。ダッフルコートを脱ぎ、両手でかかえた。病院内は暖房がよくきいていた。
 野村は不思議そうな表情で明日香を眺めた。その瞳にわずかな変化があったのは、もしや、という思いがあったのかも知れない。明日香は勇気を出して自分の名前を告げようとした。
「あ、あの、あたし、明日香です。野村明日香」
 その名前を聞いた時、野村の顔が驚きとともに一瞬嬉しそうになった。
「あ……」
 何か言おうとしたが、声が出ない。明日香は思い切って呼んでみた。
「パパ、なんでしょ?」
 なつかしい呼び声に野村は震え出した。
「あ、あ……あ、あっちゃん!」
「パパ! あたしのこと、おぼえてくれたんだ」
 ふたりとも、涙目になった。
「お、大きくなったな。あっちゃん」
「パパ」
 明日香はこらえきれなくて泣き出してしまった。その髪の毛をなでてやりたかったが、右手の自由がきかなかった。右半身がマヒしているのだ。
「あっちゃん、よく来てくれたね。こんな俺のこと、パパと呼んでくれるのか」
「もちろんだよ、パパ」
 明日香は泣き顔から笑顔になろうとした。
「ね、パパ。いつかきっと、きょんちゃんを連れてくるね」
「そうか。きょんちゃん、いや、今日子も大きくなっただろうな。今、はたちだろ。大学生か。あ、いや、ママが亡くなったのだから、無理か」
「うん、OLやってるんだ。そうだ、来年の一月、成人式に出るんだよ。新世紀で新成人なんてステキじゃん」
「そうか。そうだな」
「絶対連れて来るよ。きょんちゃん、パパのこと許してないけど、やっぱり心のどこかで、ずーっと待っていたんだと思う」
「無理もないことだ。本当なら俺が行って謝らなければならんのに、こんな体になってしまって」
「だからこそパパ、手術を受けてリハビリして、一日も早く元通りに歩けるようにならなきゃ。きょんちゃんの成人姿、見たいんでしょ!」
「ああ」
 いつの間にか左側の歯の痛みが消えていたことを、明日香は気づいてなかった。

 今日子の会社では仕事おさめになった。今年最後のあいさつと別れ、来年もよろしくと散りぢりになっていく陽気な社員やOLの群れの中、今日子だけは気が晴れなかった。明日香は父に会えたのだろうか。そしてその結果は……?
 帰途に向かう足取りも重かった。ふと、ケータイが鳴った。
「ハイ」
『きょんちゃん、あたし』
「え、あっちゃん?」
『うん、パパに会ったよ』
「え……」
『パパ、あたしのことおぼえてくれたよ。もちろん、きょんちゃんのことも忘れてないって。そしてね、今までのことや、ママが亡くなったことについて、どうしても謝りたいって、パパが言ってるんだけど』
「………」
『きょんちゃん、会ってくれるよね』
「ダ、ダメ。わたし、会わない」
『なんでよ。パパは歩けないんだよ。体の半分がマヒになってるんだよ。カワイソーだと思わないの?』
「いい加減にしてよ。会わないと言ったら会わないの!」
 今日子はケータイを切ってしまった。十年前、自分たちを捨てた父親に会ってどうしろと言うのか。会って元通りになるくらいなら、苦労したこの十年間はどうなるんだ。何を今さら、と憤慨していた。だが……
 そんな気持ちでも、まだどこかに、会ってみたいという思いがないとは否められなかった。許せないけど、やっぱり憎めない。そんな複雑な心境が今日子を悩ませているのだ。
 いつの間にか、今日子は病院に来ていた。が、まだ迷っている。入ろうか、引き返そうか。
「きょんちゃん!」
 ギクッとして今日子は声のした方を見た。ロビーから明日香が出て来て、今日子の腕を取って引っ張った。
「やっぱり来てくれたんだ。あたし、信じて待ってたんだ。やっぱ、姉妹だもんね。これが家族というものね」
「あ……」
 今日子は明日香の腕を振りほどいた。
「カンちがいしないでよ。わたしはあっちゃんを迎えに来ただけだから」
 すると明日香はじっと今日子をにらんだ。そのまま顔を近づける。今日子はのけぞりながら、
「な、何よ」
「きょんちゃん、意地を張るのはもういい加減にして、素直になったら。ちょこっとの時間でもいいから」
 ふたたび明日香に腕を取られた今日子は、引っ張られながら病院内を歩いた。
「さぁ、ここがパパの病室だよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ。わたし会うって言ってないよ。それにまだ心の準備ってものが」
「ヘェー、じゃやっぱり会ってみる気持ちはあるんだ」
「あっちゃん!」
「いいからいいから」
 明日香は一気にドアを開けた。
「パパ、きょんちゃんを連れて来たよ」
「え……?」
 ポカンとする野村をよそに、明日香はドアの外に立ったままの今日子を手招きした。今日子はおずおず入って来る。顔は自然とうつむいた格好になった。それを見つめながら、野村はその名を呼んでみた。
「きょ、今日子、きょ、きょんちゃん、きょんちゃんか」
「………」
 今日子はゆっくり視線を野村の方へ移した。表情がかたい。野村が言い始めた。
「ほ、本当に申し訳なかったと思っている。十年前、おまえたちを捨てて愛人のもとに走ったのは、若気の至りだった。その愛人が事故で亡くなり、それから俺は仕事を転てんとしながら全国をさまよっていたんだ。おまえたちが苦労した分には及ばないだろうが、俺も辛かった。何を今さらと思うだろう。しかし、戻りたくても戻れなかった。何と言うか、過去のあやまち、罪の意識というか、それが俺をしり込みさせたんだ。俺はもともと気が弱かった。だからおまえたちの所に戻る勇気もなく、ママにはずいぶん苦労をかけ、あげく死なせてしまった。本当に悪かった。申し訳ない。許して欲しい……」
 野村は自由のきかない体で頭をさげようとしていた。見ていて、ふびんだ。哀感漂う場面だ。だが、今日子の反応は冷たかった。氷の表情だ。いや、よく見ると、右手がこぶしを握りしめたまま震えている。悲しみをこらえているのか。怒りにわなないているのか。憎しみのために気が狂いそうなのか。
「きょんちゃん、何とか言ってやってよ。パパがあんなに謝ってるんだから」
 うしろから明日香がうながしたが、今日子は相変わらずのていだった。そのまま、何分か気まずい雰囲気が続いた。
「ひとつ……」
 ふいに今日子の口が開いた。
「ひとつ、訊いていいですか」
「あ、ああ」
 野村がうなずくと、今日子は深呼吸をして思い切って言った。
「家族って、いったい何ですか」
 それを聞いた時、野村は何もこたえることができなかった。明日香が口を出す。
「何言ってんのよ、きょんちゃん。そんなわかりきってること、パパに訊くもんじゃないでしょ」
 今日子が振り向いた。
「同じ家に住む者同士、それが家族と言うの?」
「あ、あたりまえじゃん」
「だったらあいつはわたしの父じゃない」
「え?」
 今日子はいきなり野村に背を向けてドアへ行った。
「ちょっと待ってよ、きょんちゃん。これじゃあんまりだよ。パパがあんなに謝ってるんだから、もう許してあげたら!」
 今日子は立ち止まった。急にきびすを返したかと思うと、明日香を通りすぎて野村のベッドに来た。
「どんなに謝ってもわたしは許す気になれません。母が帰って来ると言うのなら別ですが、わたしはあなたを一生許さないわ!」
「……そうか」
 力なくうなだれた野村を見ながら今日子の目はうるんでいた。くちびるがわななき、体も震え出す。
「きょんちゃんのバカ!」
 背後から明日香が叫んだ。今日子の心は泣いていた。十年間憎み続けた氷のような感情がだんだん溶けてゆくのを止めようがなかった。待って待ち続けたあげく、裏切られても、やはり思慕の情は忘れられないのだ。そんな思いと気持ちを、こぶしに集めるように握りしめた。そして、また訊いた。
「一回、なぐっていいですか」
 野村はゆっくりうなずいた。
「一回とは言わず、何回でもなぐってくれ。今日子の気が済むまで」
「きょんちゃん、やめてよ。パパも何てことを言うのよ!」
 明日香が止めようとしたが、遅かった。今日子のこぶしが野村のほほにあたる。野村は一瞬目をつむる。
「きょんちゃん、ダメェーッ」
「……!」
 だが、いつまで経ってもほほに痛みがなかった。薄目を開けた野村は驚いた。
「きょ、今日子」
 何と、今日子のこぶしが野村の左ほほスレスレに止まっていたのだ。その両目から流れるものがあった。
「きょんちゃん」
 ホッとした明日香は今日子の背中が泣いているのを感じ取った。今日子は震える口調で、
「許せないと思っていても、心のどこかに許してあげたいと願わずにはいられない。待ち続けているうちに、愛情が憎しみにかわるなんて、そんなのはただの錯覚だった。それに気がついていても、わたし、素直になれなかった……」
 その場にしゃがんでしまい、今日子は号泣した。最初は無言だったが、次第に泣き声がもれた。
「きょ、きょんちゃん」
 明日香が近寄って今日子の背中を優しく抱いた。もらい泣きしていた。野村も涙が出た。
「本当に悪かった。今日子、本当に済まなかった」
 何度も謝る野村の右手を、今日子は両手で握りしめた。泣きぬれた顔が無理に笑顔をつくろうとしていた。涙をふきながら首を横に振る。
「今日子、許してくれるのか」
 今日子はわずかだがうなずいてみせた。やっとの思いで言った。
「お、お帰りなさい」
「あ、ああ、ただいま」
「ずいぶん、やせたのね」
 そして、今日子は呼んだのだ。
「パパ……」
 それを聞くと明日香は手をたたいて喜んだ。
「きょんちゃん、パパと呼んでくれたんだ」
「今日子、俺が歩けるようになったら、改めてママのお墓参りに行くよ」
 今日子はほほ笑みながらうなずいた。
「あ、雪だ」
 明日香が窓の外を指さした。ぼたん雪が降っていた。まるで自分たちを祝ってくれるかのような降り方だった。今世紀最高の、少し遅れた<クリスマスプレゼント>でもあった。

 新世紀――
 成人の日、野村今日子は新成人になった。この日の記念のため、振袖の今日子は、中学校制服の明日香と、リハビリ中でまだ車イスだが背広を着た父とともに、病院内で三人一緒の写真を撮った。その帰り――
「きょんちゃん、おめでとう」
「ありがとう」
「もう大人になったんだから、いつまでも<きょんちゃん>って呼ぶわけにはいかないよね」
「え、じゃ、何て呼ぶのよ」
「お・ねぇ・ちゃん!」
 今日子は苦笑いした。
「ね、あっちゃん」
「何」
「パパにはないしょだけど、わたし、<パパの娘でよかった>って思えるようにがんばるわ」
「うん。あたしもがんばる!」