DOLL/第五話

風をもとめて

 一月――
 新世紀も早半月を過ぎた。この街も平常とかわりなく、人びとも忙しく行き交っていた。何ごともなく、日が暮れようとした。
「ただいま」
 ひとりの娘が『モリサイクル』の裏側、住居に入った。森夕子である。玄関には一通の郵便物が入っていた。それを拾って家に入る。差出人やあて先を確認していると、おや、という顔をした。あて名には北野好美という、知らない名前があったのだ。
「きたのこのみ……?」
 よしみ、のまちがいである。
「そんな人、うちにはいないけど、配達ちがいにしては、あて先はちゃんとうちになってるし……」
 あ、と夕子は思いあたった。
「あの人、風来坊さんのことかも。でも、何だか女の子みたいな名前」
 夕子はくすぐったそうに笑った。早速、この手紙を店にいる風来坊に持って行こうとした。
「北野このみさん」
 え、という顔で風来坊は整備中の手を休めて、夕子を見やった。
「どうしておれの名前を? それに、このみ、ではなくて、よしみです」
「あ、ごめんなさい。お手紙来てるよ」
 夕子は封筒を差し出した。風来坊こと北野は頭をさげながら受け取った。差出人は北野千佳ちかと出ていた。
「お、おふくろ……」
「お母さんからのお手紙?」
 北野の横顔をのぞきながら夕子が訊いた。北野はあいまいな返事をしただけで、封筒をつなぎの作業服のポケットへ乱暴にねじ込んだ。その様子は何か気まずいようだった。
「それじゃわたし、お夕飯の用意してくるね」
「ハイ」
 返事しただけで、北野は整備にかかった。
 その夜、店の仕事もおえ、夕食も済ませた北野は、二階の自室へ戻った。まだ封を切ってない手紙を取り出す。その瞳には悩ましげな色が漂っていた。何か読みたくないような、読まなければならないような、複雑な心境だった。北野は決心したように封を切った。
《よっちゃん、お元気ですか。年賀状、ありがとう。これでやっとよっちゃんの居所がわかったので、わたしもお父さんもホッとしています。長い間、連絡がないので、わたしたちはよっちゃんのことが心配で心配でなりませんでした。あれからもう五年経つのですね。わたしたちは元気で暮らしています。お父さんもまだまだ元気で働いています。この分だとあと十年くらいは大丈夫かしら。よっちゃん、たまにはお手紙くださいね。そして、また会える日を楽しみにしています。かしこ。母より》
 読みおえた時、北野はつぶやいた。
「いい加減、子離れできないんだな」
 封筒をしまって寝ころんだ。両手を組んでまくらにして天井を見あげる。脳裏に過去の断片が浮かんだり消えたりした。
(よっちゃん、お願いだからあぶないことはやめて!)
 そんな母の言葉が強く耳にこびりついた。
(いい加減にしろよ、おふくろ。おれはな、でっかい夢があるんだ。男なら誰でも冒険のひとつやふたつ、やってみたくなるんだ)
(だからって、そんな、命を捨てるようなことをやらなくても)
(命を捨てる?! 何言ってるんだ。これが男の生き方なんだ。人生なんだ。わかってくれ。おふくろ)
(よっちゃん!)
 堂どうめぐりのような場面が北野をイライラさせた。舌打ちも出る。ふと、ノックが聞こえた。北野は飛び起きた。
「ハイ」
 ドアを開けて入ったのは森和彦だった。
「いいかな」
「あ、どうぞ」
 北野は自分が入っているコタツの側に座布団を用意した。
「あ、気にせんでいい。明日はうちの定休日だけど、何か用事があるかね」
「いや、別に何もありません」
「そうか」
 森はしばらく噤んだ。北野が呼びかける。
「森さん、何か」
「ん、いや……」
 森は咳払いしてから言った。
「サイクリングにつき合ってくれないか」
 え?と言うような顔で北野は森を見つめた。
「うちにはサイクリングクラブがあるんだが、新年祝いと兼ねて新春サイクリングを毎年やってるんだ。日曜日じゃないから集まるのはほんの五、六人くらいだが、よかったら君も参加してみないか。うちに来て以来、どこへも行ってないじゃないか。足ならしにどうかね」
「日帰りですか」
「もちろんだ。コースは毎年ちがうのだが、今年はR1ルートワンでS峠を越え、くだった所で休憩して、またUターンして戻るというコースだ」
「S峠?」
 県境であり、昔は関所でもあった。交通も激しく、トンネルもある。てっぺんには峠茶屋と呼ばれるパーキングエリアがあって、かなり広い。
「雪は積もってませんか」
「I峠やK峠とちがって低い峠だからそれほど雪は積もらないよ。ま、ロードレーサーのような細いタイヤじゃ不安だろうから、マウンテンバイクがいいよ。うちのを貸すから使うといい」
 願ってもないことだった。去年の十一月にここへ来てからサイクリングらしいサイクリングをしてなかった。体もなまっていたことだし、冬のサイクリングも悪くない。
「わかりました。一緒に参加させていただきます」
「そうか。実は夕子も参加することになった」
「え?」
「こないだ新成人になったばかりでね、はたちの記念としてぜひサイクリングしてみたいと聞かないんだ」
「いいじゃないですか」
 北野は嬉しそうだった。
「ん、バカに嬉しそうじゃないか。しかしS峠だよ。どんな健脚でものぼり続けておよそ一時間はかかる。そんな難コースに夕子を連れていくわけにはいかんよ」
「ほかの参加する人は、みんな健脚ぞろいですか」
「ほとんど主婦だが、トライアスロンの経験もある。健康のためにやり始めたことが本格的になった人ばかりだ。私はもう現役じゃないから」
「マイペースでそれぞれ走ったらいいじゃないですか。コースは決まっているんでしょう」
「うむ、そこでだ。夕子の同伴として走ってくれないか」
「え、お、おれが、ですか」
 北野はドキンとして顔がまっかになるのを感じた。
「でも、それだったら森さんがいいじゃないですか。親子でサイクリング、ほほえましいですよ」
「何がほほえましいものか。いくらトライアスロンをやめたとは言え、いまでもロードレーサーで飛ばしとるよ。ツーリング派の君とはちがうよ」
「ハァ……」
「どうかね。娘の同伴として参加してくれるか」
「夕子さん、サイクリングの経験は?」
「通学や通勤の程度だな。買いものも自転車だけど、そんなのはサイクリングとは言わんよ」
「ハァ、わかりました。夕子さんの同伴として参加します」
「ありがとう。夕子には私から話しておく。それと、雨天中止だからそのつもりで」
「わかりました」

 白い息が出ていたが、あまり寒くもなく、太陽が顔をのぞかせていた。『モリサイクル』集合、八時。集まったのは森和彦、夕子、北野好美を含めて五人しかなかった。あとのふたりはこの店の常連であり、トライアスロン仲間でもある三十代の主婦だった。
「あら、風来坊クンも参加するの?」
「ハァ、よろしくお願いします」
「いいお天気だし、のんびり楽しんじゃおうね」
「ハァ……」
 主婦ふたりに話しかけられて、北野はデレデレだった。その様子を見て夕子はあきれたように半分おこっていた。
「さぁ、出発しようか」
 森の号令とともに、五人はそれぞれの自転車でスタートした。はじめはグループの呼吸を合わせるかのように、ゆっくりのんびりしたサイクリングだった。だが、それは単なるウォームアップでしかなかった。
 朝の交通は地獄のようだ。雑踏や車たちの間を縫うように、五人の自転車が走る、走る、走る。やがてR1に着き、交通も次第にとぎれると主婦ふたりと森の三人は自分のペースで飛ばした。森は、チラ、と後方の北野を見やった。娘を頼む、という合図だ。
「あ、お父さんたち、スピードの出しすぎだよ」
 夕子はあわてて追おうとしたが、北野に止められた。
「夕子さん、そんなムリしてスピードを出すことはありませんよ。おれたちはのんびりとサイクリングを楽しもうじゃないですか」
 夕子はもとのペースに戻った。
「夕子さん、疲れてませんか。疲れたら休憩していいですよ」
「バ、バカにしないでよ」
 夕子はすねていた。ふたりはマイペースで黙もくとペダルをこぎ続けた。K駅に近づいた時、甘いにおいが漂った。
「大判焼きか、あるいはタイ焼きかな」
 そう思って北野は自転車をとめた。後方を見ると、はるか遠くに夕子の自転車が見えた。近づいて来る。
「何も待ってくれなくても、どんどん先に行ったらいいじゃない。どうせこの道まっすぐなんでしょ」
「いや、この辺で休憩しましょう。腹減ってはいくさもできませんからね」
 夕子も甘いにおいに気づいた。北野は周囲を見まわした。K駅駐車場近くの民家の中に大判焼きという看板が見えた。ふたりはそこへ行く。
「よっつ」
 北野が注文して代金を払った。あつあつの大判焼きを夕子にふたつ渡したあと、キョロキョロ探す。
「何を探してるの」
「あ、いや、立ったまま食べるのはどうかと思ってね。どっか座れる所を探してるんですが」
 K駅の前にバス停留所のベンチがあった。さいわい、人がいなかったので、ふたりはそこにかけることにした。
「あったかくて、おいしいね」
「そうですね」
「あ、そうだ」
 何か思い出した夕子はポケットから携帯電話を取り出して、北野に見せた。文字のメールが出ていた。
《夕子。今どの辺にいる? 疲れたのなら途中でひきかえしてもいいぞ》
 ベルではなくバイブレーションに切り換えておいたので、自転車をとめて見たわけである。だから遅れてしまったのだ。
「そうだったんですか。おれ、気づかなくて申し訳ありません」
 北野は律義に頭をさげた。
「わたし、どうしても今日一日だけでもいいから、お父さんと同じコースを走ってみせるよ」
 それは執念に似た言葉だった。
「どうしてそんなにこだわるんですか。何も今日でなくても、いつでもやれるんじゃないですか」
 夕子は意を決したように話し始めた。
「こないだの成人式にね、なつかしい友だちに会ったの。小学校時代のね。その子のお父さん、蒸発して行方知れずだったけど、去年の暮れにバッタリ再会したんだって」
 第四話の野村今日子のことである。
「小学校時代からずーっと憎んでいたはずの気持ちが、まるで氷が溶けていくように、あとかたもなくなって、今度は<お父さんの娘でよかった>と思えるようにがんばりたい、って言ってた。あの子、ずいぶん<大人>になったんだなぁ、って思ったの。それにくらべて、わたしなんかまだまだお父さんに甘えてばっかり。その点まだ大人とは言えないよね」
「でも夕子さん、ドールでお手伝いしたり、『ひだまりの村』でボランティアしたりしてるじゃないですか」
「それとこれとは別の問題」
 夕子は大判焼きの残りを一気に食べた。
「結局、大人と子供の境界線って、どこにあるのかなぁと思ったわけ」
 北野はなるほどと思った。最近の成人式はひどいものだった。自分勝手な振る舞いをしたり、ケータイでしゃべったり、と自己中心的な若者が増えている。
「何のために成人の日とか成人式をやるのかなって、わたし思うんだけど」
 夕子は北野を見やった。
「ね、北野さんはどうだった」
「え?」
「北野さんも何年か前に出たんでしょ」
「成人式に、ですか。いや、おれは出てません」
「あ、そうなの。でもどうして」
 何も言いたくないのか、北野は噤んでしまった。
「一生に一度しかない日なのに」
「おれも、おそらく夕子さんと同じ考えだと思います」
「え?」
「いくら、はたちになったからって気持ちや心、ましてや精神的に大人になりきれてない人間もいるんですから。おれもそういうタイプの者でしたから」
「でも……」
「そういう話はやめにして、そろそろ出発しましょう。ここから先は長い坂道です。S峠まで約十キロメートル。ずーっとのぼりですから、ギアは最小にして鈍亀ドンかめ走法で行きます。ペダルは踏むものではなく、まわす感覚で」
「そのくらいわかってるよ。こう見えてもわたしは自転車屋の娘なんだから」
「そうでしたね。失礼しました」
 ふたりはまた自転車に乗って再出発した。
「夕子さん、努力するのも大切だけど、たまには息抜きも大切ですよ。ペダルをまわすのに疲れたら押して歩いてもかまいません。自転車に乗っての疲れが歩くことによってなおることもありますから」
「わかってるって」
「じゃ、おれ、先に行ってもいいですか」
 うなずいた夕子から、北野はどんどん先へと走って行った。
 これから長いのぼり坂である。脚力の弱い夕子にとって気の遠くなりそうな道だった。目の位置をかえると、まるで壁のようだ。息切れも激しくなった。空気が冷たいので吐く息が白い。汗も滝のように流れる。暑いくらいだ。防寒服を脱ぎたくなった。
 そんな夕子の自転車の横を、車たちがえんりょなく通りすぎてゆく。苦しい思いの中で、夕子は考えた。
「お父さんはこんな苦しいことの何倍もやってたんだ。あのトライアスロンの日……わたしが自閉症だった頃、お父さんは足の故障をかかえていながらがんばってくれたんだ。わたしのために……だから、わたしもがんばらなくちゃ」
 最初は軽く感じたペダルもだんだん重くなってきた。ゆっくり息を吐き、吸い、この運動に比例するように両足の回転もリズム的だ。マウンテンバイクであるが、一文字型のハンドルをにぎる両手首に痛みが出てきた。
 K駅のバス停留所から出発してどのくらい経ったのだろうか。夕子にとっては一時間以上かかったような錯覚だったが、実はまだ三十分しか過ぎてない。
 そろそろ足がまわらなくなった。自転車が前に進められない。転倒しそうだったが、左足で何とか支えた。仕方なく降りて歩くことにした。のどがカラカラだ。ダウンチューブに備えつけているボトルで乾きをいやした。ただの水である。ひたいからの汗が目に入る。袖でぬぐいながら、夕子は自転車を押し歩き続けていた。
 だんだん高度があがると周囲の山やまが拡がった。秋の名残かのように、赤や黄色もあった。この景色がいい目の保養になった。あとから追い越す車たちの騒音や排気ガスにはへきえきしていたが、空の青さと山やまが溶け合うような風景には心が洗われるようだ。
 民家ひとつもない寂しい峠道だった。こんな寂しい道を、自転車の人たちはどんな思いで走り、通って行ったんだろう……
 夕子ははじめて<サイクリスト>の心境を少しだけ知り得たような気がした。そうだ。一歩一歩少しずつ歩めば道はできるし、必ずゴールにたどり着けるはずだ。たとえ時間はかかっても、たとえ遠くても、たとえルートやコースをまちがえても、たどり着くべきゴールはひとつなんだ!
 そう考えながら夕子は黙もくと自転車を押して歩き続けていた。疲労感はまったくなかった。呼吸も気持ちよくなり、冷気も気にならない。あれほど滝のように流れていた汗はさすがに出なくなったが、まだ寒くはなかった。すでに一時間は過ぎた。
「え?」
 夕子は前方を見て驚いた。トンネルである。
「うそ。自転車通れるの?」
 などと心配したが、ちゃんと歩道はあった。ホッとした夕子は勾配がきつくなってないことに気づくと、自転車に乗った。もちろん歩道と車道の間にはガードレールがある。ライトを点けてトンネルへ入った。すさまじい騒音だ。それにトンネル内の歩道は水たまりやら砂やらひびやら、また急に幅の狭い歩道など、設備が悪かった。それでも夕子は気をつけながら自転車を走らせた。だんだん光が見えてきた。出口だ。
 そこを出ると、ひとりの男が手を振っているのが見えた。北野である。それに父の森和彦やふたりの主婦も見えた。そこは峠茶屋だった。夕子はとうとうてっぺんに着いたのだ。
「え、てっぺんなの?!」
「夕子、よくがんばったな。連絡がないから途中で何があったのかと心配したよ」
「えへん、これで少しは見なおしたでしょ?」
「まぁな」
 そんな父娘おやこの会話に談笑するふたりの主婦、そして北野の五人は昼食にするためにレストランへ入った。サイクリングのあとの食事はうまいものだった。五人は休憩したり、買いものしたりしたあと、午後からの帰りの用意を始めた。
 そんな時だった。駐車場は満車で、人の往来も激しい。子供も多い。四、五歳の男の子がふざけながら走りまわっている。そこへ一台の車が急発進した。駐車している車たちの陰から飛び出た男の子を発見するや、若いドライバーはあわてて急ブレーキを踏んだ。男の子はびっくりして立ち止まる。その近くに北野がいたのだ。
「あぶない!」
 右足のことなど忘れて駆け出す。男の子をかばうために転びまわる。そのあとを車はスピンしながらやっと停まった。
「北野さん!」
 夕子が駆けつけてきた。さいわい、男の子は無事だった。その両親や若いドライバーのおわびの声をよそに、北野の体は震えていた。顔がまっさおだ。
「……北野さん?」
 夕子が何度呼びかけても、北野の正気は戻らなかった。
「み、みーな……」
 その言葉が北野の震える口から出た。森と主婦ふたりの協力で、北野はようやく落ち着いた。夕子は主婦ふたりのささやく会話を聞きのがさなかった。
「風来坊クン、まだあの事故の後遺症がなおってなかったのね」
「ようやく立ちなおったのかと思ったけど、やっぱり精神的にはまだなおってなかったのね」
「そうね。右足だけじゃなく、心まで深く傷ついてしまったものね」
「何しろ妹を死に追いやったのは自分のせいだと思い込んでしまってるのね。だから家族と大ゲンカしたあげく、家出のような形でひとり旅を続けていたわけね」
 そんなヒソヒソの会話を、森がやめさせた。
「もう、そんな話はやめたまえ。誰だって過去のことを探られたくはないだろう」
「あら、ごめんなさい。それで風来坊クン、いえ北野くんは大丈夫なの?」
 森は北野を見やって、
「もう大丈夫だろ。な?」
「ハァ……ご心配をおかけしました」
 北野は頭をさげた。夕子は少しホッとしたが、それ以来、北野は無口になってしまった。帰り、五人はバラバラにならず、一緒にサイクリングしてモリサイクルに着いた。

 北野は元気がなくなったように、無口のままだ。夕食は三人で食べているが、普段ならよくお代わりしていたのに、その夜に限ってごはん一杯でおわった。そんな北野を夕子は心配した。どうしても気になるので、父に尋ねずにいられなかった。
「お父さん。北野さん、過去に何があったの。知ってるのなら教えて」
 だが、森は何も言いたくないようだった。
「どうしても知りたいのなら、少し待ってくれ。今、本を探してくる」
「本……?」
 森は居間を出ると、物置から古い雑誌の束を取り出し、心あたりの本を探しはじめた。それは何年か前の自転車雑誌だった。すると見つけたらしく、森はその本を居間の夕子に持って行った。
「このページを読んで、どう考えるかは夕子の判断にまかせる」
 その言葉以外、森は何も言わなかった。夕子は開かれたページを読みはじめた。実際に起こった事故を編集スタッフが取材し、まとめた記事だった。
《ある晴れた日曜日、仲のよい兄妹がサイクリングに出かけた。高校生と中学生だ。その帰り、休憩するために自転車から離れた時のこと、兄妹が一台の暴走車にはねられるという事故が起こった。目撃者の証言によると、暴走車から妹をかばうために、兄が飛び出し、そのためにふたりともはねられてしまったらしい。妹は即死、そして兄の右足が複雑骨折……その後、編集スタッフはその兄を見舞いに訪れ、今の心境や今後のことをインタビューしようとしたが、断れたことがあった。あわれ、妹を助けたために、脚を失ったサイクリスト――》
「まさか、このお兄さんが、北野さんだと言うの?」
 夕子が訊いたのだが、森は何もこたえようとはしなかった。
「みーな、って言うのは北野さんの妹さんだったのね」
「実を言うと」
「え?」
「もう二度と自転車に乗れるような体ではなかったはずだった」
 その言葉だけで、夕子が後頭部をなぐられたようなショックをおぼえるのに充分だった。
「それでもリハビリを続け、ふたたび自転車に乗れるようになったのは、何か執念に似たようなものがあったんだろうよ」
「執念……」
「たとえて言うなら、夕子が自閉症になった時の俺、あるいは俺以上なのかも知れん。詳しいことはよくわからんが、彼がふたたび自転車雑誌に姿を見せた時は、本当に俺も驚いたんだ。右足はまだギクシャクするらしいが、自転車に乗れるなんて、普通では考えられんことだ。まさしく<不死鳥>だよ」
 森は夕子の顔を見て、一瞬息をのんだ。
「ゆ、夕子……?」
 夕子の目からひと粒流れるものがあったのだ。それはかつて母を失い、自分のカラに閉じこもっていた時代のことを思い出したからだろうか。
「そういう悲しみがあったから、現在いまの北野さんがいたわけね。何となくわかるような気がするよ。彼の気持ち」
「同情ならまだいい。だが……」
 それ以後の言葉が出てこなかった。
「だが、何?」
「夕子、おまえ、まさか、北野くんのことを……?!」
 そう言われてみて、はじめて夕子は自分の気持ちを思い知った。それは認めたくもない<感情>だった。はじめて風来坊と名乗る人がうちにやって来て以来、うさんくさそうにしながらでも、どうかするとヘンな人だと思っても、異性として別に感じなくても、またイヤな人だと思っても、家族同様にあつかった夕子であった。決して心から嫌いではなかった。むしろ心地よい人物だと思ったくらいだ。それは<家族として同居>するより以上、<好き>という気持ちが高じていただけかも知れない。
 そんな感情を今の今まで、まったく気づいてなかったのだ。恥かしくていたたまれなくなり、夕子はこの居間から飛び出た。廊下に出るや、バッタリ北野と目が合った。
「あ……」
「あ、おやすみなさい。おれ、もう寝ますので」
 夕子の気持ちを知ってか知らずか、北野は頭をさげると洗面所へ向かった。夕子の胸はドキドキしていた。こんな気持ちで、これから北野好美とどう話せばいいのか――