ここで、北野千佳の事故の前後を再現することにする。
千佳はプラットホームにたたずんでいた。乗客はそんなに混雑していなかったが、電車が近づいた時のこと、若者グループがあやまって千佳の背中にぶつかった。歩きくたびれていた千佳の足腰は立っていることさえ、きつかった。その支えが崩れたために、千佳の体が転び、その勢いでプラットホームから落下してしまったのだ。
電車は間近に迫っていた。停車寸前のスピードでも急停車するのはムズカシイ。
ところが、奇跡が起こったのだ。
千佳の体に触れるギリギリで、電車が停まったのである。命は助かったものの、足首のねんざと肩と背中の打撲、頭に出血があったので、すぐ病院へ運ばれた。
駅員たちに運ばれる途中、そこで高和志歩と橋本哲も事故のことを聞きつけ、救急車に同乗することになった。千佳はうわ言で「よしみ」と何度も呼んでいた。
病院に着くと応急処置が行われた。その結果、一週間の安静が必要だと言う。
志歩は千佳の家族に連絡するから、と言ったが、千佳は息子に心配させたくないと渋っていた。それでも志歩の説得によって連絡することになった。が、肝心なことに、モリサイクルの電話番号を知らなかった。途方に暮れていると、哲が言い出した。
「ド、ドールナラ、シッテルカモ、シ、シレマセン、デス」
まったく突拍子もないことだ。だが、志歩はハッと思い出した。例の案内兼招待状に、ドールの電話番号があったのだ。早速志歩が電話をかけると、ドールから出て来たのは南部ゆかりだった。
お互い初対面だが、とにかく北野の母がケガで入院しているから、モリサイクルにいる息子に伝えて欲しいと、どうにかこうにか連絡した。それで、ゆかりがモリサイクルに連絡した次第であった。
ゆかりの運転するワゴンで、北野好美は森夕子とともに病院へ行った。受付で問い合わせると、北野千佳は二階の病室だと言う。
それを聞くと、好美は先へと駆け出した。片足をひきずるような歩き方なのに、早かった。夕子もゆかりもあとに従いて行く。階段をのぼろうとする好美の背へ、夕子が呼びかけた。
「北野さん、エレベーターがあるのに」
それが聞こえなかったのか、好美は階段を駆けのぼった。いや、聞こえなかったのではない。無視したのだ。この態度ははじめてだった。まるで夕子やゆかりの存在を忘れたかのように、好美は階段をのぼり続けた。
二階にあがると、標札を探した。すると、北野千佳の名前を見つけた。内から楽しそうな話し声が聞こえた。好美は意を決して、ノックする。
『ハイ』
聞きなれた母の声が返って来た。ノブをまわして一気にドアを開ける。病室の中では、ベッドの上で身を起こしている千佳と、ベッドの脇には女子高生と少年が丸イスに腰かけていた。好美はまだ知らなかったが、高和志歩と橋本哲だった。
「よ、好美……」
千佳がそう呼ぶのを聞いて、志歩はすぐ丸イスから立ちあがった。哲も見習う。
「な、何だよ。意外と元気そうじゃないか」
好美の口からそういう言葉を聞いた時、夕子は今まで抱いていた好美のイメージが簡単に崩れゆくのを感じた。それはガラスの破片のように、粉ごなと砕け散った。
「何だとは何よ。だ、誰があんたに、心配してくれって言ったのよ。別に頼んだわけでもないのに」
「それだけ口がきけるなら大丈夫だな。ヘッ、心配して損したぜ。おれ、帰るぜ」
好美がいきなりきびすを返すと、夕子とゆかりのそばを通りすぎた。
「おばさん?!」
志歩が千佳に詰め寄った。
「今の人、息子さんでしょ。いいの、止めなくても?」
「あのバカムスコ……いいからほっといて」
千佳はふてくされていた。
「アタシ、連れ戻して来る!」
「志歩ちゃん」
千佳の呼び止める声も聞かずに、志歩は病室を飛び出た。開けっ放しのドアには、夕子とゆかりがまだ立っていた。好美の背中が、廊下の向こうに見えた。志歩が駆けながら呼び止める。
「ちょっと待ってよ!」
好美が振り返る。
「おばさんはね、救急車の中でうわ言で呼んでたよ。よしみ、よしみって。だからもう少し居てあげてよ」
「誰だか知らんが、君にゃ関係ないこった」
冷たい表情だ。志歩は高ぶる感情をおさえきれず、
「か、関係なくもないよ。そりゃアタシは他人だけど、でも親子ってやっぱり大切だと思うよ。アタシもお父さんにすごい反発したことあるけど、でも、今はやっぱりゴメンという気持ちが強くて、だから時どきお父さんの所へ遊びに行くんだよ。そん時は前のこともあって気まずい思いもするけど、でも何とかやってゆけてるよ。親子って、切っても切れるもんじゃないと思うよ!」
志歩の両目から大粒の涙があふれ出した。それでも好美は心を動かさなかった。
「何と言われようが、おれには関係のないことだ」
そう言い捨てると、好美は背を向けて歩き出した。片足が不自由なことさえも、志歩の目には映らなかった。
「な、何だよ。あんたの心には、<愛>というものがないの?! それでも人間かよ!」
このひとことが、好美の足を止めた。よっぽどこたえたらしかったが、すぐ歩き出した。それを見て、志歩は一気に叫ばずにはいられなかった。
「バカァーッ!」
志歩は泣き崩れた。うしろから、ゆかりが優しく抱いて、病室へ連れ戻した。夕子も複雑な気持ちで病室へ入る。と、そこに哲がいるのを見て、夕子もゆかりもびっくりした。
「あら、テッチャンじゃないの?」
「ハイ、デス」
ペコッとお辞儀した哲から視線をはずして、ゆかりは千佳を見やった。
「お加減いかがですか」
「ありがとうございます。どなたか存じませんが、ご心配をおかけしまして、本当に申し訳ございません」
千佳は頭をさげた。
「あの、息子とはどういう関係の……?」
ゆかりは夕子を見やった。それが合図で、夕子は自己紹介した。
「あ、あの、わたし、森夕子です。モリサイクルショップの娘です。はじめまして」
丁寧に頭をさげると、千佳もまた頭をさげる。
「あー、モリサイクルのお嬢さんでしたの。好美がお世話になっております」
「い、いえ、こちらこそ」
「おばさん、あの」
ようやく落ち着いた志歩が呼んだ。
「なぁに?」
「アタシ、そろそろ帰るね」
「ごめんね。わたしのために時間がムダになっちゃって」
「いいんだよ」
志歩は哲に訊いた。
「テッチャンはどうするの?」
「ボ、ボクモ、カエリマス、デス」
「大丈夫? もう外は暗くなってるよ。道に迷わない?」
「ワカリマセン、デス」
志歩は実際こけそうになった。哲はまだ、<ひだまりの村>に居住しているのだ。ゆかりが志歩に声をかけた。
「失礼だけど、どちらに住んでるの?」
志歩はゆかりの質問に、自分の住所を告げた。
「それだったら、わたしの車で送ってあげるわ」
「あ、せっかくだけど、実はお母さんに連絡してあったの。だから、もう病院の駐車場で待ってるんじゃないかと思うんだ」
「お母さん、車?」
志歩はうなずいた。
「テッチャンはわたしの車で送るから、心配しないでね」
「うん。じゃ、さようなら」
片手を振りながら、志歩は病室を出て行った。階段を降り、ロビーを通ると、北野好美の姿を見かけた。ソファに腰かけてボンヤリしているようだ。それを見て、またムラムラするものがこみあげてきた。が、そのままにして、母が待っているであろう駐車場へ向かった。
「あの、ご主人へのご連絡は……?」
そう訊いたのは、ゆかり。ベッドの千佳は首をゆっくり横に振った。
「よかったら、わたしが連絡しましょうか」
「すみません。一週間も歩けないから、やっぱり主人に来てもらった方がいいわね」
「それじゃ、電話番号を教えてください」
ゆかりはメモを出して、千佳の告げた電話番号を書きとめた。その市外局番の地域が気になって、
「どちらに住んでらっしゃるんですか」
「Y県です」
ゆかりはびっくりしたように、
「まぁ、遠い所からわざわざ……それじゃ、わたし、電話しますね。夕子さん、あとをお願いね」
「あ、ハイ」
ゆかりが病室を出ると、残ったのは千佳、夕子、それに哲であった。夕子は居心地が悪そうに、丸イスに腰かけていた。
「あ、あの、わたし、できるだけ北野さんにお見舞いに行くように話しますので、どうか元気になってください」
「いいんですよ。ムリしなくても。あんなバカムスコなんか、来てくれたって嬉しくはないんですからね」
「そんな……」
あとの言葉が続かなかった。
「夕子さん、でしたわね」
「あ、ハイ。夕子です」
千佳は哲を見ながら、
「テッチャンの家庭って、どんなのか、ご存知?」
「あ、あの、よく知らないけど、お母さん亡くなっていて、それで中学生の妹がよく面倒みてたんです。でも高校入試のため、テッチャンは施設にあずけられることになったんです。わたし、その施設でお手伝いとかするんだけど、時どきテッチャンと話したりします。でも、テッチャンの言ってること、よくわからないことが多くて……」
夕子は苦笑いしていた。
「そぉ……」
千佳は哲をまじまじ見つめていた。哲は落ち着きがなく、キョロキョロするばかりだ。
「テッチャンの障害は、どんな?」
「知的障害です」
「そう……」
千佳はため息つくように、
「実はうちの娘、ダウン症だったの」
千佳がポツンと言った。夕子はハッとした。北野好美の妹、みーなのことではないか。しかも、ダウン症候群だなんて……
「夕子さんは、好美から何か聞いてなかった?」
「あ、いいえ、何も……」
「もう、五年か六年経ったかしらね。うちの娘、美奈子と言って、好美は<みーな>って呼んでたの。ホントに仲のいい
兄妹だった」
夕子はもっと聞きたかったのだが、あいにくゆかりが戻ってきたので、あきらめざるを得なかった。
「ご主人、明日の朝一番、新幹線でいらっしゃるそうです。ここまでの道順を詳しく教えましたけど、念のため、わたしが地方鉄道Y駅まで迎えに行きます」
「どうもすみません。何から何まで」
「いいえ」
ゆかりは、夕子と哲を見て、
「そろそろ、おいとましましょうか」
「ハイ、デス」
哲が勢いよく立ちあがった。夕子は心残りそうだったが、哲につられるように丸イスから立って、
「それじゃ、お大事に」
「本当にどうもありがとう」
病室を出た三人はロビーを通った。夕子がソファに腰かけている好美を見つけた。
「北野さん」
顔だけ振り向いた好美は、何も言わずに立って歩き出した。ワゴンに同乗することになった哲の存在も、先にひだまりの村へ行くと言ったゆかりの声も、ほとんど気に止めていなかった。
そんな好美の態度を、夕子は複雑な心境で眺めていた。それに、さっきの女子高生(つまり高和志歩のことであるが、まだ名前を知らなかった)の言動がすごく気になっていて、頭から離れられなかった。
(おばさんはね、救急車の中でうわ言で呼んでたよ。よしみ、よしみって。だからもう少し居てあげてよ)
(関係なくもないよ。そりゃアタシは他人だけど、でも親子ってやっぱり大切だと思うよ。アタシもお父さんにすごい反発したことあるけど、でも今はやっぱりゴメンという気持ちが強くて、だから時どきお父さんの所へ遊びに行くんだよ。そん時は前のこともあって気まずい思いもするけど、でも何とかやってゆけてるよ。親子って、切っても切れるもんじゃないと思うよ!)
(何だよ。あんたの心には、<愛>というものがないの?! それでも人間かよ!)
(バカァーッ!)
実際、夕子は女子高生の性格をうらやましいと思っていた。その半分でも自分にあれば、好美に言いたいことを何でもぶつけられるのに、と考えていた。
そして、似たような環境にあった友だちのことも思い出していた。第四話の野村今日子であった。いつか、今日子に話して相談してみようか、とも思った。
翌日の午後、地方鉄道Y駅にひとりの初老の男が降り立った。黒の古い鳥打帽をかぶっている。プラットホームの案内板を頼りに歩いていると、ふいに声をかけられた。
「失礼ですが、北野好美さんのお父さんでしょうか」
「ハイ。私、北野
宏です。ゆうべの電話の南部さんですね」
「ええ、南部です。さ、奥さんの病院へご案内いたします」
「そりゃ、どうも……」
北野宏は南部ゆかりの運転する車で、千佳の病院へ向かった。
「お父さん」
「おー、意外と元気そうじゃないか」
「すみません。ご心配かけて」
「ゆうべ、電話があった時はホントにびっくりしたぞ」
「お父さん、会社の方は?」
「妻が事故で入院したと報告したら、今日から一週間の有休をくれたよ」
「そう……」
「時に、好美は?」
千佳は何も言わず、首を横に振るだけだった。
「そうか……実は昨日、これが届いたんでな」
宏がカバンから取り出して見せたのは、一通の封筒だった。それを見ると、千佳の目が大きくなった。
「こ、これは……」
「そうだ。美奈子からだよ。十年前の、な」
「………」
千佳は封筒をいとおしそうになでまわしていた。
「お父さん、まだ読んでなかったんですか。これ、封を切ってないでしょう」
「ああ、これを最初に読むべきなのは、好美だと思ったから、俺はまだ読まずに持って来たんだ」
宏は紙袋を置いて、
「この中に、おまえの着替えや身のまわりのものが入っている。俺はこれから好美の所へ行こうと思う」
「え、場所はわかるの?」
「いや、実は南部さんを待たせてあるのでな」
南部ゆかりはロビーで待っているのである。宏は封筒を指さしながら、
「それ、好美に見せておくから」
千佳は封筒を宏に返した。
「お父さん、好美を必ず連れ戻してくださいね」
それを聞くと、宏は困ったような顔をした。
「母さんや。できることなら俺もそうしたいよ。でもな、俺も男だ。あいつを見てると、昔の青春時代を思い出してな」
「お父さん!」
千佳がきびしい目でにらんだ。
「わかった。わかったから、そうにらむな。じゃ、また来る。大事にな」
それから宏は、またゆかりの車でモリサイクルへ向かった。
「お、おやじ……」
「しばらくだな。元気だったか」
宏は好美の肩をなつかしそうにたたいた。森和彦のはからいで、北野親子は好美の部屋へ通された。森がお茶と茶菓子を出して部屋を出てからも、ふたりは押し黙っていた。父と息子というものは似た者同士なのか、このふたりはどちらも元来無口ということもあって、気まずい雰囲気が漂っていた。
「おふくろの所は、行って来たのか」
「あぁ……」
「はるばる来てくれて悪いけど、おれの気持ちはかわらない。おふくろに伝えてくれるか」
「……わかった」
それきり会話が途絶えた。何分か経って宏が思い出したように、
「これな、昨日うちに届いたんだ」
例の封筒を見せると、好美はいぶかしそうに受け取った。とたん、おどろいた表情になった。
「み、みーな……?」
「なつかしいだろ。まるで、<あの世からの手紙>としか思えないよな」
それは事実、美奈子からの郵便物だった。あて名は北野宏、千佳、好美と書かれていた。宏が<あの世からの手紙>と錯覚したのも無理はなかった。日付を見るとちょうど十年前のもので、それは<タイムカプセル>だった。そう言えば美奈子の小学校時代に、<十年後のわたし>という題で作文や手紙などを書く国語の授業があったではないか。
(わたい、十年後の夢のこと、書くね)
(ほぉ、みーなはどんな夢があるんだい。ぜひ聞きたいな)
(わたい、看護婦たんになう。人のここお、いたみ、わかってあげう、やたちい、看護婦たんになう。だかあ、わたい、がんばう)
(そうか。看護婦か。みーなならきっとなれるよ。おれ、応援してやるから)
(うん、あいがとう。わたい、がんばう!)
そんな会話の場面が、急に好美の脳裏に浮かんだ。たまらなくなって泣き出した。
「み、みーな……」
好美は封筒をにぎりしめたまま、泣き崩れてしまった。
お父さん、お母さん、お兄さんへ――
十年後のわたし、どうなっているのでしょうか。夢見た通りに、看護婦さんになれているのでしょうか。それとも、まだ学生でしょうか……
<ふつう>だったら、明るいバラ色の未来を想像してみるのも楽しそうだなー、と思うんだけど、わたしにはぜいたくでしょうか。
わたしが<ダウン症候群>だと知ったのは、小学校に入学する頃でした。体の成長がほかの子とちがうことに気づき、なんで生まれたんだろうと思い悩みました。ちょっとしたイジメにもあいました。
でも、わたしが負けなかったのは、お父さんとお母さんとお兄さんのやさしい<愛>に包まれていたからです。<勇気>もくれました。もしかしたら神さまは体の成長が悪い分だけ、きっと頭脳をよくしてくれたのかも知れません。だからスポーツができない分、勉強にはげみました。この調子だと、有名大学への入学も夢ではない、と先生も応援してくれていました。
わたしは今十歳です。十年後なら
二十歳ですね。成人式に出られるかな。ちゃんと<大人>になれてるかな。不安がいっぱいの未来だけど、わたしには<夢>があります。それは看護婦さんになることです。人の心や痛みをわかってあげられる、やさしい看護婦さんになりたい。
でも、もし、それができなかったのなら、わたしは、タンポポになっているかも知れません。
冠毛が風に吹かれて遠くへ散布するように、夢を風に乗せて、多くの人たちに<愛と希望>をふりまいているのかも知れません。
夢は風に乗って――
わたしの夢は、ひとりでも不幸な人を救ってあげたい。いたわってあげたい。わかってあげたい。そして、世界の人びとが仲好くなれるように、地球上から戦争をなくしてやりたい。世界中に<愛と夢と希望>という芽を植えてあげたい――
もしかしたら、現実はまったくちがうわたしになっているかも知れません。でも、この手紙が来るのを楽しみにして、くじけそうな時、負けそうな時、この手紙を思い出して、またがんばります。
お母さん、こんなわたしを生んでくれて、本当にありがとう。言葉ではなかなか言えないけど、手紙ならいっぱい書けます。感謝しています。
お父さん、お体に気をつけて、仕事にがんばってください。
お兄さん、いつも応援してくれてありがとう。わたし、お兄さんの<妹>でよかったと思っています。また、お兄さんが、<みーなの兄>でよかったと思えるように、わたしもがんばります。
十年前の美奈子より――
小学生とは思えない綺麗な字で、また、頭の良さを示すように漢字も多かった。それに成長の障害と言っても、運動がまったくできないわけではなかった。走ることはできるし、何よりも風を切る感覚が好きで、よく自転車に乗り、サイクリングしていた。その影響で、好美も自転車好きになったくらいだ。
「それと、な」
宏が言い出した。
「その手紙とは別のことだが、実は昨日、ひとりの女の子がうちをたずねて来たんだ。誰だと思う?」
好美は見当がつかなかった。
「美奈子がたすけてやった女の子だよ」
あ、と好美は思い出した。五、六年前のあの日、好美が高校生、美奈子が中学生の時のことだ。
秋の行楽シーズン、ふたりでサイクリングに出かけた。観光地は多くの人でにぎわっていた。その場で、幼い弟と追いかけっこをしている小学生の女の子がいた。駐車場の近くだ。そこに、マナー知らずの暴走車が飛び出して来たのだ。女の子があぶない。
それを、近くにいた美奈子がかばったのだ。だが暴走車のブレーキがきかない。美奈子は女の子を突き飛ばすことにした。
「みーな!」
好美も駆け出して妹をかばったのだが、運悪くふたりともはねられた。
その結果、美奈子は死にいたり、好美の足が故障したのだった。
「その女の子が中学生になってな、高校に受かったと報告してくれたんだ。美奈子の遺影に合掌してくれて、<命の恩人>だとも言ってくれたよ」
好美は言葉に詰まった。
「美奈子が生まれてきたことは、決してムダではなかったんだ。少なくとも、その女の子を含めて、何人かの心の中に生きているだろう」
好美はもはや何も言わなくなったが、内心は嬉しかった。やがて少し笑ってうなずいた。その表情を見ながら、宏がまた言った。
「好美……これは俺の想像なんだが、ちがってたら許してくれ」
と前置きしてから、
「おまえ、旅を続けるのはまさか、<死に場所>を探すためじゃ、あるまいな?」
好美はギクッとした。本心を見透かされたような気がしたからだ。が、観念したように、わずかにうなずいた。
「そうか。だとしたら、俺は反対だ。いいか。好美、よく聞けよ。冒険というものは<生きて帰る>ことだ。五体満足でなくてもいい。ただ、生きていてくれたらいい。それだけでいい。好美、おまえが本当に探し求めるべきなのは、<死に場所>ではない。<居場所>だ」
宏の強い口調に、好美は何もこたえられなかった。
「美奈子のことで、これ以上自分を責めるのはもうやめろ。これは<運命>だったんだ。遅かれ早かれ、この世に生まれた以上、死は必ずおとずれるんだ。事故だろうと病気だろうと」
「実を言うと……」
やっとのことで、好美がポツンと言った。
「五、六年前、妹ではなく、おれの方が死ねばよかったんだ。そう思ったことが何度もあった。みーなが自転車のために死んだのなら、おれも自転車で死のうと、リハビリをがんばったんだ。そしておふくろの反対を押し切って、おれはひとり旅に出た。<自殺するための場所>を探し求めるために……しかし、気づいたんだ。どんなに死にたくても簡単には死ねないんだ。いや、死なせてはくれないんだな。それと、地方ごとにちがうけど、あたたかな人間性、<命の大切さ>を教えられたような気もした。だから今は、このみーなの手紙を読んで、生まれかわったつもりになって、<愛と夢と希望>を風に乗せて、日本中に、いや、世界中にばらまきたいと、痛切に思っている」
好美はまともに見れなかった父の顔を、きっと見すえた。
「おやじ、おれ、<居場所>を探し求めるために、また旅に出る。今度はみーなの魂とともに!」
「そうか」
宏はゆっくりうなずいた。
「それを聞いて安心した。母さんには俺から話しておこう」
「あぁ」
「好美、<男の顔>になったな」
宏は好美の肩をポンとたたいた。
そのあと、宏はまた千佳の病院へ向かい、好美の意思を告げた。最初、反対していた千佳だったが、美奈子の手紙の内容を知るにおよんで、だんだん温柔になっていった。
「いつの時代でも男と女のあり方はかわらないんだな。女は愛に生き、男は夢を追いかける、という……」
宏はつくづく思った。
千佳が退院して故郷へ帰る時に、好美は地方鉄道Y駅まで見送りに行った。母と息子の間には、まだギクシャクするものがあったが、それも時間の問題だろう……
春休みになった。第七話にも書いた通り、橋本香も長瀬久美子も野村明日香もそろって、第一志望の<希望の丘高校>に合格した。その祝いも兼ねて、ドール新装開店記念パーティーが開かれた。
最初、気のすすまなかった北野好美だったが、森夕子の強引な(?)誘いで、仕方なく参加することになった。
香も久美子も連れ立ち、明日香は姉の今日子とともにやって来た。哲はなぜか高和志歩と一緒にやって来た。はじめて会う人もあったので、お互いを自己紹介し合った。
「え〜、本日は忙しい中を集まっていただいて、誠にありがとうございます。おかげさまでドールは新しくなり、今までより以上、みなさんにご満足いただけるよう、ますます努力いたしますので、どうかよろしくお願い申しあげます」
ドールのマスター・南部豊が開会のあいさつを済ませると、拍手がわいた。
「まずはカンパイする手はずですが、その前に、テッチャンこと橋本哲くんの発表があります」
「ハイ、デス」
哲が右手をあげながら立ちあがった。みんなが注目する中、香があわてた。
「え、な、何、テッチャン?」
「ボ、ボク、カァチャンニ、イイタイコトガアリマス、デス」
「な、何よ」
「まぁいいから。テッチャンね、一生懸命練習したんだから、まぁ聞いてあげてよ」
横からそう言ったのは志歩だった。哲を見て拍手を送った。
「テッチャン、しっかり!」
「ハイ、デス」
みんなも拍手した。哲は深呼吸する。
「ア、ワスレテマシタ、デス」
みんながこけそうになった。哲はたすき掛けのカバンから、一枚の原稿用紙を取り出すと、一気に読み始めた。
『ボクの妹、カァチャンへ、デス。中学校の卒業、そして高校入学の合格、おめでとうございます、デス。何もわからないボクを、お世話しながらの勉強はとても、大変だったと思います、デス。だから、ボクが施設に入ることになった時、正直ボクはホッとしました、デス。これで、カァチャンが一生懸命勉強できるからデス。だから、合格しました、デス。ボクはとてもウレシイ、デス。ボクは、そんなカァチャンを、立派だと思います、デス。ボクは、妹のことを、カァチャンと呼びます、デス。なぜなら、ボクの妹は、<日本一の母>だからデス。日本一えらい母だからデス。日本一えらい妹デス。ボクは、そんな妹を大切にしたいと思います、デス。カァチャン、合格、おめでとうございます、デス。これからまた、一緒に暮らせて、うれしいデス。どうかよろしくお願いします、デス。おわり、デス!』
哲は一気に頭をさげると、すぐに座った。はじめは呆気にとられていた香だったが、いつしか胸中にふるえるものがあった。とたんに拍手がわいた。
その人びとの中で、複雑な心境で耳を傾けていたのは、ほかならぬ北野好美だった。原稿を読みあげる哲の姿が、自分の妹・美奈子とダブっていたのだ。
哲の発表(?)がおわると、それを待っていたかのように、カララン、とチャイムが鳴った。ゆかりがいつもの笑顔を向けたが、すぐこわばった。豊も、招かざる客を見てうなった。
「お、おふくろ……」
高級着物を身に包んだ老婦人が現われた時、一番ビクッとしたのは、ほかならぬ長瀬久美子だった。老婦人は店内を見まわした。香や明日香たちとかたまっている久美子を見つけると、ゆっくり近寄った。久美子は正視できず、うつむいてしまった。豊が老婦人を止める。
「何しに来たんだ。招待したおぼえはないぞ」
それを聞いた時、おや、と思ったのはやはり北野だった。最近、自分も似たようなセリフを吐いたことがあったからだ。
老婦人はジロリと豊に目を向けると、
「おまえに用があって来たのではありません。久美子に話したいことがあったから、来たのです」
「また女の子を泣かせるつもりか。今日はめでたいんだ。それなのに、またぶちこわすのか!」
「あなた」
怒鳴る豊を、ゆかりが制した。老婦人は久美子に近づく。久美子は相かわらず、正視できないでいた。香たちはそんなふたりを見守っているしかなかった。老婦人がポツンと呼んだ。
「久美子さん」
それでも久美子は顔をあげなかった。去年の十二月の衝突以来、この祖母と孫娘の関係は疎遠になっていた。だから、この突然の来訪を快く思ってないのだ。
店内の誰もが固唾を呑んでいた。老婦人がまた言った。それは、想像もしない言葉だった。
「合格、おめでとう」
一瞬わが耳を疑った久美子は、ハッとして老婦人を見あげた。心からそう言ってくれているのか、その表情には相かわらずの冷たさがあった。
「ただ、それだけを言いに来ました」
老婦人はクルリときびすを返して、ドアへ向かった。久美子がいきなり席から立ちあがった。
「ま、待って!」
老婦人の足が止まった。が、振り返らない。久美子は席を離れて、老婦人の背中へ駆け寄った。
「あ、ありがとうございます。まさか、祝ってくださるなんて、思ってもみませんでした。あの、去年は、本当に申し訳ありませんでした」
久美子は老婦人の背へ頭をさげた。この意外な言動に、老婦人の内心はおどろいたにちがいない。老婦人はゆっくり振り向いて、久美子を見やった。
「あなたが自分で選んだ学校です。絶対卒業しなければ、承知しませんよ」
「ハイ」
久美子の返事を聞くと、老婦人の厳しい表情がゆるんだ。能面のような口元に、わずかな笑みがあったのだ。これは久美子にとって、はじめてみる祖母の笑顔だった。老婦人はまた背を向けて、ドアを出て行った。その背へ、久美子は呼びかけた。
「おばあさん、ありがとう!」
おばあさん……祖母と孫娘という関係ながら、一度も呼んだことのなかった久美子にとって、和解し得たようなひと時だった。それは老婦人も同じ気持ちだったろう。
「おふくろのやつめ。味なことをしてくれるじゃないか」
豊が感心したようにつぶやいた。気を取りなおして、
「大変お騒がせしました。それでは食事にしますが、その前に、みなさんに試食していただきたいものがあります」
すると、ラーメン独特のいいにおいが店内に充満した。豊が募集した中で、採用したラーメン職人が、この記念すべき<ドール第一号ラーメン>というものをつくったから、みんなに試食して欲しいと言う。前回にちょっと書いた、<片腕のラーメン職人>であった。
「オ、オイシー、デス」
哲が叫ぶと、香も志歩も人さし指と親指でマルをつくった。このふたりは性格が合うのか、それとも哲の影響なのか、すぐ仲好しになれたようだ。久美子も明日香も今日子も誰もが「おいしい」と言ってくれた。
「北野さんは、どう?」
ウエートレスも兼ねている夕子が、北野に訊いた。北野は何も言わずに、ただラーメンを食べていた。返事がないので、豊もラーメン職人も北野の感想を待っていた。みんなの注目を浴びていることを感じた北野ははずかしそうに、
「みんなは、たったひとくち食べただけで、すぐおいしい、とか言うんだけど、たったひとくちだけでは、その料理のすべてがわかるわけじゃないと、おれは思います。だから、最後まで食べてみないと、何とも言えないわけで……」
「そうなんですよね」
そう言ったのは、そのラーメン職人だった。わが意を得たり、といった表情だ。
「たしかにその通りなんです。料理の本当のおいしさは、すべて食べてみないとわかるはずはないですからね。最近のグルメ番組とかを見てると、料理をちょっと食べただけで、すぐおいしいとか、うまいとか言うのが多いんじゃないですか。これはおかしいと思っていたんですよ。だから、それを言うのは全部食べてからでいいんです。いや、何も言わなくても、全部食べてくれたら、それでいいんです。おいしいから全部食べられるわけでしょう」
その力説に誰もが納得し、拍手がわいた。やがて北野はラーメンを全部食べおえると、親指をピンと立てた。
「おいしかったです」
ラーメン職人が喜んだのは言うまでもない。まもなくカンパイがあって、食事、飲食もだんだんにぎやかになり、カラオケの段になった。
「ボ、ボクガ、ウタイマス、デス」
哲が叫ぶと、志歩が訊いた。
「え、テッチャン、歌えるの? 何を歌うの」
「モチロン、モーニングムスメ、デス!」
それを聞くと、香は頭をかかえた。また始まったか、という顔だ。
哲がマイクを握ると、志歩も久美子も明日香も一緒になって歌い始めた。『LOVEマシーン』である。「Wow×4」や「Yeah×4」を歌う時、哲は「デス」の連発に吹きかえるのだから、リズムが狂うのだが、それでも店内は爆笑だった。
「ツギワ、ウッハッ、デ、イキマス、デス」
『恋のダンスサイト』が始まった。またか、と香はブスッとしている。
「テッチャンって、おもしろい人だね」
香に声をかけてきたのは、明日香だった。
「さっきのテッチャン、感動したよ。香のことを<日本一の母>だなんて、すてきなきょうだいじゃん」
「そんなもんですか」
今の香は素直ではなかった。
「カァチャンていうのは、テッチャンだけの呼び名なんでしょ」
「え?」
「うちは、<あっちゃん>と<きょんちゃん>て呼び合っているんだけど、これも家族の間でしか呼べない決まりだったの。今でもそうだけど、あんまり独占というか、そろそろやめて開放してもいいかなと思って」
「でもあたし、友だちにカァチャンなんて呼ばれたくないもん」
「それもそうだね。でも、それだからこそ、<家族としての絆>が強まるんじゃないかな。あたしね、この街に生まれてよかったと思ってるよ」
「うん、あたしも、この街に生まれてよかったと思ってる」
ふたりは笑い合った。
やがて哲の歌がおわった。今度は夕子がマイクを握った。これも<モーニング娘。>だが、さっきのにぎやかな音楽とちがって、バラードふうの『ふるさと』だった。亡き母への思いと、北野好美への別れの意味を込めて、熱唱した。この歌を聞いているうちに、涙を流す者もあった。歌っている夕子自身も、涙が出た。
カラオケは盛りあがった。次つぎとマイクをうばい合う者も出てくるしまつだ。森和彦は『遠くへ行きたい』を、野村今日子は『時には母のない子のように』を歌った。
「ね、北野さんも何か歌ってよ」
「え、お、おれですか」
夕子に話しかけられて、カラオケメニューを見る。
「おれって、今時の歌なんてあまり知らないし……」
「そんなの気にしなくていいよ。お父さんたら昔の歌ばかりでしょ。とくにオハコの『霧の摩周湖』なんか、ありゃ歌じゃなくて、まるで絶叫だよ」
夕子が笑うと、北野も笑った。
「じゃあ、おれ、この歌でいきます」
北野が選んだのは『風』だった。夕子はただ北野の歌声に聞きほれていた。
「夕子、こないだ話してた人のことでしょ」
「あ、今日子。うん」
夕子のそばにやって来たのは、今日子だった。北野好美の歌う姿を見ながら、
「わたしの家庭環境と似ているんじゃないかって、夕子は思いちがいしてたんじゃない?」
「うん、そうみたい」
「ま、とにかく他人がとやかく言うことじゃないと思うの。それぞれ家庭事情が異なるのはあたりまえだから」
「うん。……ね、今日子」
「なぁに?」
「お父さん、早くよくなるといいね」
「ありがとう」
「きょうだいって、いいなぁ」
「え、何、急に?」
「テッチャンとカァチャン、きょんちゃんとあっちゃん、お互いにたすけ合ったりしていられて……わたし、ひとりっ子だから」
「別にきょうだいでなくても、この街にいる限り、家族として、人間としての絆はかわらないと思うの。ううん、ますます強くなるんじゃないかな。わたし、この街に生まれて本当によかったと思ってるわ」
「そうだね。わたしも思うよ」
やがて北野の歌がおわった。
「夕子、がんばんなさいよ」
「え、何?」
今日子は意味ありげな笑みを浮かべながら夕子の肩をたたくと、席を離れた。その入れちがいに、北野が戻って来た。
「今日子ったら何言ってんのよ」
「え、何か」
夕子のひとり言を、北野が聞き返した。夕子はあわてて、何でもない、と言った。だが、その本心は……
来月になれば、北野好美は旅に出るのだ。モリサイクルから、いや、この街から出て行ってしまうのだ。そのことを思うと、夕子の胸中は寂しさにおそわれた。恋に似た感覚がなかったとは言えない。それでもまだ、そんな自分の気持ちを素直に認めたくない思いもあった。
このまま、時間が止まってくれたらいい、と夕子は願っていた。にぎやかなパーティーとともに、朝なんて来なければいい、とも願った……
四月になった。桜も満開になり、全国のあちこちに入学式があった。もちろん、この街での希望の丘高校も例外ではない。新しい制服を着た香、久美子、明日香を含めて、新入生たちは初ういしい。これからの期待と不安を胸に抱きながら――
そして……
この入学式より先立って、モリサイクルにはちょっとした別れがあった。朝焼け寸前の空の下、キャンピング車という車種の自転車に、フロントバッグやサイドバッグを装着している若者があった。
北野好美である。ディパックを背負うと、店を眺めた。別れを惜しむかのように、また、別れを告げるかのように……
森にも夕子にも会わずに旅立つつもりだった。敬礼したあと、自転車にまたがる。
「北野さん!」
突然、夕子の声が飛んできた。見ると、手に何か新聞紙の包みをかかえていた。
「これ、おにぎり」
夕子は北野のディパックに入れてくれた。黙って出るつもりだった北野は、バツが悪そうな気持ちのまま、礼を述べた。
「あ、ありがとう」
「北野さん、さよならは言わないよ」
「……え?」
意味を理解できなかった北野は、夕子を見つめた。夕子は意を決していた。もうあとにはひけない。
「この街に、また来ることがあったら、絶対うちへおいでよ。わたし、うんと歓迎してあげるから。ううん、ここが、北野さんにとって<本当の居場所>だと思えるように、わたしもがんばるから。わたしも、お父さんも、ドールも、ひだまりの村も、この街も、みんな、北野さんにとって、<第二の故郷>だと思えるように……」
それを聞くと、北野はほほ笑みながらゆっくりうなずいた。
「あぁ……必ず帰って来るよ」
北野の右手が夕子の頭をなでまわした。はじめてのことだった。
「それじゃ、行って参ります」
北野の自転車が遠くなった所で、夕子が叫んだ。
「風来坊!」
夕子は泣き笑いながら両手を大きく振りあげていた。
「行ってらっしゃーい!」
お わ り