DOLL/第一話
カァチャンと呼ばないで
この街には『ドール』という喫茶店があった。西欧風のおしゃれな店構えで看板にはアルファベットで『DOLL』と書かれている。そして扉の横には、『身体障害者交流の場』という札が貼ってあった。
十月の午後、ひとりの少年が歩道を通りかかった。十七、八歳くらいだろう。偶然、DOLLの看板を見た時、少年の足が止まった。店の外観や扉、窓をながめる。ガラス張りになっている窓からは店内の様子が見えた。ひとりも客はいないようだ。自動車なら十台とまれる駐車場には一台もなかった。
少年は突っ立ったまま、しばらく店内を見つめていた。歩道を行き交う人たちの視線も気にならないようだ。少年は扉を開けた。カララン、とチャイムが鳴る。二十代後半の女性が迎えてくれた。
「いらっしゃいませ」
この店のマスターの妻である。少年はおどろく様子もなく、ただポカンと女性の顔を見つめるばかりだ。かと思うと、ペコッとお辞儀して一気にしゃべった。
「ド、ドモ、ボク、テッチャンデス。ハジメマシテ、デス。オネーサンノナマエ、ナンデスカ」
奇声だった。女性は一瞬おどろいたが、すぐほほ笑んだ。
「わたしはゆかり。よろしくね。さ、どうぞ」
「ハイ、デス」
テッチャンと名乗った少年は言われるまま入った。カウンターといくつか並んでいるテーブルとチェア、観葉植物、マンガのたくさん入った本棚、レジスターなどはじめて見るものばかりだった。
「どうぞ。どこでも好きな所に座って」
「ハイ、デス」
テッチャンはさっき外からながめていた店内と同じ場所へ行き、チェアに腰かけた。ゆかりが冷たい水を持って来た。
「何か食べたいもの、飲みたいものありますか」
ゆかりがテーブルの隅に置いてあったメニューを指さしながら言った。それをながめながらテッチャンは考えた。ゆかりは何か思いついたらしく、
「あ、テッチャンは文字が読めますか」
「ハイ、デス。ダイジョーブデス」
ゆかりはホッとした。
「ボ、ボク、ココア、ダイスキデス。カァチャンのツクッテクレルココア、トッテモオイシイデス」
「そう。でもお母さんのような味でもなく、おいしくないかも知れないけど、ココアでいいですか」
「お母さん、ではアリマセン。カァチャン、デス」
この意味にゆかりは首をひねった。
「何だかよくわからないけど、ご注文はココアでいいですか」
「ハイ、デス。ソレト、チョコパフェもオネガイシマス、デス」
「あ、ハイ」
ゆかりは笑いながらオーダー票に記入した。
ドールはコーヒーや紅茶などの飲みもの、簡単な料理や定食、デザートやパフェ、ケーキなどの洋菓子のほか、うどん、そば、ラーメンなどのめん類もあって、喫茶店とは思えないほどメニューは豊富だった。調理、料理は主に夫婦でやっている。ウエートレスはアルバイトやパートをやとっていた。
「お待たせいたしました」
チョコパフェとココアが運ばれて来た。ココアの甘いにおいがテッチャンの鼻をくすぐった。チョコパフェを食べる。その冷たさがテッチャンの舌を刺激する。ひと時、幸福の時間がテッチャンを包んだ。喫茶店でひとりでチョコパフェを食べ、ココアを飲むことはテッチャンにとって初体験でもあり、冒険でもあった。
テッチャンこと橋本哲は産まれた時に脳に障害が生じた知的障害児であった。養護学校での訓練によって自分で考え、行動することはできるようになったが、まだ善悪の判断、言葉や動作の意味、危険の認識などは幼児か小学校低学年なみの知能しかなかった。
哲は今、中等部二年生。と書けば年齢は十三か十四歳と思われるだろうが、実は十八歳である。養護学校では学年と年齢は一致しないことがあった。外見だけではわからないが、その動作や言動を見ればすぐわかる場合がある。哲の場合、「ドモ」とか「デス」を言う時、どもるクセがあった。また、はじめて会う人に対しても人見知りすることなく、「ハイ」と従うのもクセのひとつだった。いや、性格なのかも知れない。
自宅から学校への通学はひとりでできるようだが、ときどき道をまちがえたり、興味があれば寄り道したりすることもしばしばで、だから学校に遅刻したり、あるいは欠席、また帰りでも家族や学校関係の人たちがあちこちと捜しまわるという騒ぎもあったくらいだった。
今、喫茶店に寄ったのもそんなクセから生じたのだ。しかも一番困ることは忘れっぽいことでもあった。チョコパフェを食べたり、ココアを飲んだりしている最中でも、学校からの帰り中だということを忘れている。また喫茶店には代金を払わなければならない常識さえも知らないのだ。
すべて飲食し終えた哲は、ゆかりのいるカウンターへ向かった。
「ドモ、ゴチソーサマデス。オイシカッタ、デス」
「そう。よかった」
「ヒ、ヒトツ、キ、キイテイイデスカ」
「なぁに」
「こ、ここはド、ドコデスカ」
「え?」
「ボ、ボク、ウチヘカエルミチ、マタワカラナクナッテシマイマシタ、デス」
「そ、それは困ったわね」
ゆかりは夫の南部豊の顔を見た。豊も首をひねる。ゆかりはまた哲を見た。
「テッチャンって言ったわね。家族は何人?」
「トウチャンとカァチャンとボク、で三人デス」
「住所とか電話番号とかメモなんか持ってない?」
「アッ」
哲は思い出したらしく、たすき掛けにしているカバンから何かを取り出した。それはカードのようなもので、名前と住所、電話番号が記されていた。《この人を見つけた方はお手数ですが、こちらまでお電話くださいますよう、お願い申しあげます》という文字もあった。
ゆかりは早速電話をかけた。呼び出し音が何回も鳴ったが、なかなか出て来なかった。切ろうとした時につながった。
『ハイ。橋本ですが』
若い女の声だった。
「こちら、喫茶店ドールです」
『え、喫茶店のドールさんですか』
「ええ。テッチャンのご家族の方ですね」
『ハイ、そうですけど、テッチャン、そこにいるんですか。あの、すみませんけど、テッチャンと代わってくれませんか』
「ハイ」
ゆかりは電話機を哲に渡した。
「モシモシ、テッチャン、デス」
『テッチャン、何してんのよ。喫茶店にいるってことは何か食べたんでしょ。お金持ってるの?』
「オカネ、オカネはモ、モッテマセン、デス」
『もう! あたしが迎えに行ったげるから絶対、人に迷惑かけちゃダメだよ。わかった?』
「ハイ、ワカリマシタ、デス」
『それじゃ、あたしが行くまでおとなしくしてるんだよ』
電話が切られた。ゆかりが訊いた。
「今の人、誰」
「カァチャン、デス」
「お母さん? 何だか若い声のようだったけど」
「お母さんではアリマセン。カァチャン、デス」
またもや、ゆかりは首をひねった。それから約十分くらいして、カララン、と扉が開かれた。
「いらっしゃいませ」
ゆかりが振り向いた時、扉に現れたのはセーラー服の少女だった。中学生だ。哲がうれしそうに手をあげた。
「ア、カァチャン、コッチデス」
その声にゆかりも豊も「えェーッ?」という顔をした。母親のことではなく、この少女のことだったのか。その少女がゆかりに向かってお辞儀した。
「兄がご迷惑をおかけしまして、すみませんでした」
またもやゆかりはびっくりした。
「え、お兄さん? それじゃあなた、テッチャンの妹さん?」
「ハイ、妹の香です」
ああ、とゆかりは納得した。カオリチャンが縮まってカオチャンとなって、カァチャンになったのだ。香はポケットから小銭入れを出した。
「あの、お代はいくらですか」
「え、あ、ああ」
すっかり忘れていたゆかりは、あわててオーダー票をのぞく。
「チョコパフェとココアでしめて、五百円になります。割引です」
「割引? 何の割引ですか」
「身障者割引です」
それを聞くと香はムッとした。
「ふつうでけっこうです。いくらですか」
ゆかりと豊は顔を見合わせた。豊が言った。
「五百円でいいんですよ。うちのポリシーですので」
「納得できません。ここに千円置いときます」
香は哲を見た。
「テッチャン、帰るよ」
「ハイ、デス」
ゆかりがあわてて呼び止めた。
「あ、お釣」
「要りません。身障者だからってヘンな目で見たり、同情したりしないでください」
香は頭を勢いよくさげると、さっさとドアを出て行った。テッチャンも従いていく。カララン、と音とともに残ったのは、千円札と、呆然と突っ立っている夫婦だった。
香は学校から帰ると電話が鳴っていたので、すぐ自転車で迎えに行ったわけだった。その自転車の荷台にテッチャンを乗せて、香はペダルをこいだ。その顔は少し怒っているようだった。家に戻ると香は怒鳴り散らした。
「テッチャン、何回言ったらわかるんだよ。あれほど寄り道しない、まわり道しない、まっすぐ家へ帰るってこと、どうしてきちんと守れないの!」
哲は香がなぜ怒鳴っているのか、わからず、キョトンとしていた。
「学校までの道と家へ帰る道は同じなんだから、おぼえられるでしょ。なのにどうして忘れちゃうのよ」
香はだんだん泣き顔になった。
「これ以上あたしの手をわずらわせないでよ。お願いだから。ただでさえ受験勉強で苦しいのに」
大声で言うだけ言うと、香は自分の部屋へ行ってドアを乱暴に閉めた。哲は今言われたことをケロッと忘れたように、自分の部屋へ行った。
香は勉強机に対った。教科書や参考書、ノートを拡げ、右手に鉛筆を持ったものの、勉強に身が入らないようだ。そのまま、時間だけが過ぎていった。と、目覚し時計がけたたましく鳴った。ドキッとして香は時刻を見ながら止めた。午後五時を示していた。ドアを開けて呼びかける。
「テッチャン、夕飯の支度だよ」
「ハイ、デス」
それから兄妹はキッチンに立った。
「テッチャン、お米は三合分。わかってるね」
「ハイ、デス」
哲は米びつからマスを使ってボウルに三回入れた。水を入れて研ぎ始める。その間、香は冷蔵庫の中をのぞいた。あるだけの材料を使って料理するのが香の役割だった。米を研ぎ、炊飯器のカマに移しかえた哲は、水を入れて目盛りを確かめた。そこが微妙にむずかしいのだ。少しでもまちがえると、ごはんが硬くなったり水っぽくなったりして味もかわるから、香にはよくしかられていた。
「カァチャン、コレデイイデスカ」
野菜を切っていた香は、哲の入れた水の量を見るや、
「何よそれ、入れすぎだよ。やりなおし!」
「ハイ、デス」
哲は言われるままに繰り返した。これがこの兄妹の日課だった。世間一般から見ると異様に映るかも知れないが、この家では通常であり、<普通>でもあった。妹の指示がないと何もできない哲は、米を洗うこととかテーブルに皿を並べたり食事のあと片づけ(お椀や皿を洗う)しかできなかった。包丁を持ってしまえば自分の指さえ平気で切ってしまうのだ。今まで何度もそういう事故(?)もあったので、包丁はもっぱら香に任せている。
夕飯の支度ができたのはもう五時半をすぎていた。香はハッと思いあたった。
「テッチャン、炊飯器のスイッチ、ちゃんと押した?」
「ハイ、ちゃんとオシマシタ、デス」
「ほんとに?」
うたがわしそうな香は自分の目で炊飯器のスイッチを確かめた。今までも何度かスイッチの入れ忘れがあり、食事の時間になって炊飯器を開けたら米はまだ米のままだったという失敗もあった。だから念のために自分の目で確かめることにしたのだ。
「ちゃんと押したね。えらいぞ、テッチャン」
「ハイ、デス」
香は自分より背の高い哲の頭をなでてやった。ほどなくして炊飯器からいいにおいが漂ってきた。あとは父親の帰りを待つばかりだ。やがて父親が帰って来たのは六時をまわった。
「ただいま」
「トウチャン、オカエリナサイ、デス」
サラリーマンである父親は、背広を脱いで普段着に着替えた。テーブルの前に腰かけると、香は三人分のお椀にごはんを盛ってそれぞれに配っていた。手を合わせた三人は声をも合わせた。
「いただきます」「イタダキマス、デス」
食事のあと、哲を手伝わせながらあと片づけを終えた香は、自分の部屋へ戻って勉強の続きを始めた。そこへドアのノックがあった。
「誰、テッチャン?」
『私だが、入っていいかね』
「父さん? どうぞ」
父親がドアを開けて入った。
「勉強か。香も大変だな」
「何か用?」
「ん、いや」
父親は頭をかきながら座ってあぐらをかいた。
「来年は高校入試で、今大切な時期だろ。そんな大切な時に炊事やら家事のことだけでも精いっぱいなのに、さらに哲の世話もやるのは感心なことだ」
「父さん、さっさと用件を言ってよ。まわりくどい言い方なんかやめて」
「あ、いや悪かった。それじゃ単刀直入に言おう。この際だから哲を施設にあずけてはどうかと思うんだが」
「え?」
香は一瞬わが耳をうたがった。
「テッチャンを施設にあずけるって言ったの、今?」
父親はうなずいて、
「その方が香も勉強に力を入れられるだろう。決して悪い話ではないと思うが」
「でもテッチャン、何て言うか」
「うむ、私からよく言っておくが、香も説得してくれるか」
「ちょっと待ってよ父さん、まったく早とちりなんだから。あたし、まだ賛成だって言ってないのに」
父親はおどろいたように、
「反対なのか。哲を施設にあずけるのは」
「あずけるとかあずけないとか、テッチャンを品物みたいに言わないで」
「あ、ああ、そ、それは悪かった」
「テッチャンが施設に入ってくれるかどうかは、やっぱり本人に聞いた方がいいと思う。そりゃあ考える力はないし、意味もわからないだろうけど、テッチャンが入りたいと言うならそれもいいし、いやならそれでもいい。今、勉強が苦しいからイライラしているし、半分は欲求不満かも知れない。複雑な気持ちなんだけど、できれば、入って欲しいと思う」
「そうか。いや、香の気持ちはよくわかった。これから哲に話すつもりだ」
「うん」
「それから、家政婦をやとおうと思う。週に二、三回、なんなら毎日でも」
香は無言だった。
「じゃ、邪魔したね。勉強あまりムリしないようにな」
父親は立った。ドアへ向かう背へ香の声が飛んだ。
「おやすみなさい」
翌朝――
「テッチャン、いつまで寝てんの。早く起きなさい!」
哲の部屋のドアを勢いよく開けた香は、思わず鼻に手をやった。
「な、何、このニオイ」
まさか、と思った香は哲の布団をひっぺがした。さらに臭気が漂った。
「テッチャン!」
寝小便だった。香はまた怒鳴り散らす。
「あんた、十八にもなってまだなおってないの。ちょっとは大人になりなさいよ。幼稚園児じゃないんだから!」
突然起こされてまだ寝ぼけている哲は朝のあいさつをした。
「オハヨーゴザイマス、デス。カァチャン」
香はカッとなった。
「カァチャンなんて呼ばないで! あたしはあんたの母親なんかじゃない。妹なんだよ。妹の世話がないと何もできない兄さんなんて、どこの世界にいるのよ!」
ついに言ってはならないことを叫んだ。
「あんたなんて大嫌い! 施設でもどこへでもさっさと行ってよ!」
哲の部屋を飛び出した香は、準備しておいた朝食も取らずに鞄を取って玄関へ向かった。香の大声を聞いて気になっていた父親が呼び止めた。
「香?」
だが、感情がたかぶっている香の耳には入らなかった。「行って来ます」も言わないまま、家を出た。
その日から香は、哲に対して冷たい態度を取り始めた。ほとんど無視を続けているのだ。この異変を哲は察する様子もなく、相変わらずの態度だった。だが香と話せないのが寂しいのか、ときどきひとり言を言うクセが出て来た。
この兄妹の雰囲気に父親は気づいていた。思えば母親を病気で亡くしたのは何年前だっただろう。父親は仏壇の前に飾っている亡き母親の写真を見つめた。母親が亡くなって以来、まだ小学生だった香が母親代わりとなって家事や炊事を一切しきるようになった。死についてまだ理解してなかった哲は、そんな香を母親と錯覚するのか、以前呼んでいたカオリチャンから次第にカァチャンと呼ぶようになったのであった。決して仲の悪い兄妹ではなかったのに、と父親は今の状況を心配するばかりだった。
哲が施設に入所する日がやって来た。秋晴れの日曜日だが、香の心は晴れなかった。あの朝以来、哲を無視し続けている自分に嫌気がさしてもいた。かと言ってすなおにもなれない。こんな気持ちのまま、哲と離ればなれに暮らすのかと思うと、香は居ても立っても居られなかった。
当の哲はと言うと、まるで遠足にでも行くような浮かれ気分だった。父親の運転する車の後部座席に並んだ兄妹はずっと無言だった。もちろん父親もそのことを気にしてはいたが……
哲が入所するのは身体障害者・児訓練施設『ひだまりの村』という所で、さまざまな障害を持つ人たちや子供たちが職業訓練や機能訓練、更生指導(リハビリテーション)を受けながら生活する場所だった。
施設内に入ったとたん、香は自分が来るべき所をまちがえたのではないかと身を堅くした。そこには今まで見たこともない、普通とちがった身体の子供たちがいた。ほとんど車イスだが自分で満足に動かすこともできず、顔や腕、脚などは異様に曲がっている子供もいた。中には鼻にチューブを入れている子供もいた。
見るにも耐えられないような光景だった。見てはいけないものを見た気分だった。それは胃液が逆流しそうな気分だった。一瞬、ここは人間が来る所ではないとさえ、思ってしまった。そんなことを考えている自分に恥じて、香は父親の腕にすがった。ふと気になって哲の様子を見やった。
「テッチャン?」
今までそばにいたと思っていた哲の姿が見当たらず、香は周囲を見まわした。それに気づいて父親が教えてくれた。
「哲ならあそこにいるよ」
父親の指さす方向を見ると……
哲は車イスの女の子の所に来ていた。女の子は重度障害児だった。顔がゆがみ、目はうつろで、発する言葉も不明瞭だ。そんな女の子を、哲は見つめていたのである。
「テッチャン、そんなにまじまじ見つめちゃあ失礼でしょ」
香は思わず駆け寄って哲の腕を引っ張った。そして、そばにいた母親らしい女性に頭をさげた。
「す、すみません。兄がぶしつけなことをしてしまって、本当にごめんなさい」
女性はほほ笑んでいた。
「あら、テッチャンの妹さん? いいえ、いいんですよ。それより、ごらんなさい。笑子が笑っているわ」
「え、笑子さん?」
車イスの女の子の名前だった。見ると、口が笑っているようだ。
「はじめてなんですよ。この子が笑ったのは」
母親が語った。
「この子が重度障害者として産まれてから、この子に笑顔がありますように、って笑子と名づけたんだけど、今まで五年間一度も見たこともなかったの。それがテッチャンのひと言で笑ったんですよ。たったひと言だけで」
「たったひと言? テッチャンは何を言ったんですか」
「カワイイネ、って」
それを聞くと香の胸がキュンとなった。母親の目から涙がこぼれた。
「親バカと思われるでしょうけど、笑子はたしかにかわいい子です。でも、ほかの人が言ってくれたことあったかしら。ただ、可哀そうだ、だけなんです。そのこと、わたしが一番気づかなきゃいけないのに、この子を一生懸命なおそうと思ってばかり。気持ちに余裕がなかったのね。それをテッチャンが言ってくれたんです。カワイイネって。笑子もやっぱり女の子だから、かわいいって言ってもらえるとよっぽどうれしかったんでしょうね」
香の心がふるえた。両の目から涙があふれそうになった。
「テッチャンがそんなことを……」
香は笑子を見ながらしゃがんだ。
「笑子ちゃん、テッチャンをよろしくね。あたしはテッチャンの妹で香と言うの。友だちになろうね」
笑子は返事のかわりに笑った。すると哲が叫んだ。
「ボクのトモダチは、カァチャンのトモダチ、デス。ミンナ、トモダチ、デス」
笑子の母親がキョトンとした。
「え、カァチャン?」
「もう、テッチャンたら、カァチャンなんて呼ばないで!」
そう言ったものの、香の心には優しさが満ちあふれていた。さっきまでよそよそしかった哲との距離が一気に縮まったように感じられた。これから哲はここに入所し、離ればなれになるけど、受験勉強がおわったら会いに行こう、と香は思った。