DOLL/第二話

風来坊がやって来た

 十一月の午後――
 この日は晴れていた。風も冷たくなく、なま暖かかった。行き交う人びとの服装は長袖がほとんどであるが、コートとかジャンパーなどを脱いでいる者も見かけた。
 そんな中、自転車に乗った若者の姿がひときわ目立った。秋もおわると言うのに半袖のTシャツで脚は半ズボンだ。いや半ズボンというよりはレーパン、つまりサイクリング用語で言えばレーサーパンツである。素足とくるぶしまでの短い白いソックス、それにサイクリング用シューズが泥で汚れていた。
 自転車を見ると、すごい量の荷物だ。ドロップハンドルの前にフロントバッグ、前輪と後輪に左右のサイドバッグ、それに背中には小さめのディパックを背負っていた。
 この若者はサイクリストであり、自転車の旅人でもあった。
「ハァ……は、腹減ったな。どっかこの辺に食堂か何かないかな」
 この街に来た時、若者は昼食にしようと食堂、レストランなどを探しながら自転車を操縦していたのである。はじめて来る街だった。
「お、喫茶店か。ま、チャーハンくらいはあるだろう」
 若者が見つけたのは『ドール』という喫茶店だった。腕時計を見ると十三時を少しまわっていた。
「この時間なら客も少ないだろう」
 そう思って若者は駐車場にとまっている車を数えた。十台とまれる駐車場には二台の車があった。とくに若者の目をひいたのは、車イス専用のスペースがみっつあったことだ。
「ほぉ」
 若者は感心していた。店のまわりを囲んでいるレンガ造りの植え込みのそばに自転車をとめた。錠をかけると、扉の方へ向かった。その歩き方が普通ではなかった。よく見ると右足が少し曲がっていて、歩くたびに体が大きく揺れる。扉の所に来た時、若者は嬉しそうな顔をした。
「ほぉ」
 扉の横には『身体障害者交流の場』という札が貼ってあったからだ。扉を開けると、カララン、とチャイムが鳴った。
「いらっしゃいませ」
 南部なんぶゆかりが出迎えて来た。若者の身形みなりを見ても、顔色を変えなかった。つまり、若者のようなサイクリストは見慣れているのだ。しかし、他の一般客は若者の姿を見かけるや、変な目で見ていた。それに汗くさいニオイも彼らを不快にさせるようだ。
 若者は片足をひきずりながら窓際の席に着いた。ゆかりが水と熱いおしぼりを持って来る。若者はメニューを見ながら、
「え〜と、五目チャーハン、それと」
 飲みものコーナーを見て、
「緑茶。熱いやつね」
「ハイ」
 オーダー票に記入したゆかりは席から離れた。若者は両手につけていたサイクリング用指なしグローブをはずした。手の甲には俗に言う<サイクリング焼け>が目立った。その手でおしぼりを取る。拡げて顔に当てた。汗のために汚れた顔がおしぼりの熱によって洗われたような気がした。水を少し飲む。少し寒くなったので、Tシャツの上からウインドブレーカーを着込んだ。ディパックの中からマップ(地図)を出し、現在地を確認する。
「え〜と、ここは……そうか。もう少しか」
 まもなくチャーハンのいいにおいが漂った。チャーハンと緑茶が若者のテーブルへ運ばれて来る。
「お待たせいたしました」
 え、もう?と若者は料理のできる時間が早いことをびっくりしていた。オーダー票をテーブルの隅に置いてゆかりは去った。若者はフォークでチャーハンを食べ始めた。エビやタマゴ、ブタ肉、野菜(タマネギ、ニンジン、ピース豆)などの具はよく混ぜ合っていて、それぞれの味をひき出していた。ご飯のやわらかさも油の量も辛さ加減も申し分なく、長い旅で疲れていた若者の体を回復させるような味だった。
「こりゃうまいや」
 今まで味わったどの地域の炒飯(チャーハン)よりも一番おいしいと感じていた。あっという間に全部たいらげた。熱い緑茶を飲む。
「うまいんだな、これが」
 などと思っている若者であった。腕時計をのぞくと、十三時になんなんとしていた。さっき調べたマップによると、今日の目的地まで約一キロメートル足らずと知ったから、少し余裕が出ていたのだ。
 窓の風景を眺めながら緑茶を飲む――
 このような時間、たとえば休憩するために見晴らしのいい景色の所で自転車をとめてしばしボォーッとしたり、コンビニや弁当屋などで買ったおにぎりや弁当を食べたり、スポーツドリンクを飲んだり、と言った時間は、サイクリストにとってこの上もない喜びでもあり、楽しみでもあった。
 サイクリストにとって自転車は単なる乗りものとか道具というものではなく、相棒、あるいは体の一部という、なくてはならない存在なのだ。晴れの日でも雨の日でも風が強い日でも白い闇のような霧の日でも体調の悪い日でも、どんな道でも気の遠くなるような峠道でも地獄のようなトンネルの中でも段差や砂だらけの工事中の道でも、自転車は常に一緒だった。
 北は北海道の最北端、宗谷岬へも行った。南は常夏の島、沖縄へも渡った。四国も九州もまわった。本州のあらゆる土地へも踏んだ。足を踏み入れたことのない県や地域はないにも等しかった。ただ通過点だけの県もいくつかあったが、若者にとって満足だった。
 しかし、今緑茶を飲んでいる若者の顔には何か陰りが漂っていた。この街へ来ることが最終目的かのように……
「そうだ。おれはこの街へ来るために、日本一周したようなものだ。これからの人生を決めるために」
 そう思ってぬるくなった緑茶を一気に飲んだ。オーダー票をのぞきながら小銭入れを出す。若者は不思議そうな顔をした。
「……五百円?」
 若者はメニューを見なおした。五目チャーハンと緑茶の値段を合わせると、八百円ちょうどなのだ。千円札を用意して、グローブやディパックをなおしながら席を立った。レジの所へ行くと、ゆかりも来た。若者からオーダー票を受け取って、レジで処理すると五百円と表示された。
「あ、五百円ですか」
 千円札を用意していた若者は、あわてて小銭入れを出した。数個の中から五百円玉を取り出す。
「安いですね。なんで五百円ですか」
 ゆかりはほほ笑みながら、うしろの壁を示した。そこには貼り紙があった。
《当店は身体障害者交流の場としてボランティアも兼ねていますので、障害者の方には割引させていただいております。一般のお客さまには通常の料金をいただきますが、もし身障者手帳をお持ちでしたら、割安にさせていただきます。何とぞご理解のほどご協力お願い申しあげます。喫茶店ドール》
「ヘェ〜身障者割引ですか。でもおれ、身障者手帳持ってないし、どこも悪くないけど」
「え、でも足が」
「ああ、これね。事故でケガしてしまってね。走ることはもうできないけど、歩くことは何とかやれるし、自転車にも乗ってるしね」
「はぁ」
 ゆかりは返事に困った。若者は笑った。さわやかな笑顔だ。
「障害者だからって同情されたって嬉しくはないけど、今回は言葉に甘えて五百円にします。でもこれからは普通の料金にしてください」
「え、これからって、旅の途中では?」
 ゆかりは窓の外にとめてある自転車を見ながら訊いていた。
「確かにおれ、旅の者だけど、それも今日でおわるかも知れません」
「じゃあ、ゴールしたってことですね」
「う〜む、ゴールと言うかな。でも冬の間だけでもいいから『モリサイクルショップ』に住み込みで働かせてくれたら、と思っているんです」
「え、森さん?」
 ゆかりの顔が太陽のように明るくなった。
「あ、森和彦もりかずひこさんのこと、知ってるんですね」
「ええ。そりゃもちろん。ご近所なんだし、だいぶお世話にもなってるから」
 若者は驚いたように、
「じゃあ森さんはここへよく来るんですか」
「ええ。たまにはね。どっちかって言うと、夕子ゆうこさんがアルバイトで来てくれてるけど」
「ゆうこさんって、森さんのお嬢さんですね」
 ゆかりは気がついて、
「あ、あなた、森さんとはお知り合いじゃないんですか」
「あ、いや、森さんのことは自転車雑誌で知っていました。かなり伝説的な人ですから。逢うのははじめてです」
「そう。森さん、いい人だから、きっとあなたを泊めてくださるわ」
「だといいんですが」
「あ、よかったらわたし、電話してあげましょうか。森さんの所へ、あなたがいらっしゃるってことを知らせるために」
「ハァ、お願いします」
 若者は頭をさげた。ゆかりは電話をかけようとして、ふと気がついた。
「あ、あなた、お名前は」
「人はおれのことを、<風来坊>って呼びます」
 ゆかりはちょっと苦笑いした。
「え、ふうらいぼう、さん?」
「そう呼んでいただけたら森さんもわかると思います。おれも自転車雑誌には何度か、風来坊として載せてもらってましたから」
 うなずいたゆかりは、モリサイクルショップの電話番号をまわした。
 自転車雑誌とは主に自転車に関する情報を載せた娯楽雑誌(月刊)で、毎年の『ツール・ド・フランス』や『ジロ・デ・イタリア』などのヨーロッパのプロのロードレースを始め、自転車の車種や部品の名称、編集スタッフによる乗車チェックや機能の善し悪しなどの記事、全国のロードレースに関するイベント開催の情報、おすすめのサイクリングコース、また読者(主にサイクリスト)の投稿によるサイクリング日記(紀行文とか旅行記のような読みもの)、全国のサイクルショップ紹介欄などいろいろ載っていた。
 その中に、森和彦のB湖トライアスロンでの奇跡的なゴールの記事も載せられ、全国的に評判に評判を呼んだ。今や伝説的な人物となっていた。(詳しくは拙著『ドール 勇気をありがとう』を読んでいただければ幸いである)
 若者は<風来坊>というペンネームで毎月一回寄稿する契約で、日本一周の旅に出ていたのだった。その存在は自転車少年たちの夢や憧れの的となり、サイクリングを趣味とする者たちの手本となり、また旅人たちの中では第一人者としての人気があった。
『ハイ、モリサイクルショップでございます』
 ゆかりが電話をかけた相手の返事がすぐ来た。
「あ、森さん、ドールのゆかりです」
『あぁ、ゆかりちゃんか。夕子ならまだ帰ってないよ』
「あ、いえ、森さんにお話があるんです。風来坊さんって人、ご存知でしょ」
『風来坊? あぁ、日本一周している自転車の旅人のことかね』
 ゆかりはちょっと驚いて、若者を見た。
「あなた、日本一周してたの?」
「ハァ」
「そぉ。すごいわね」
 ゆかりは電話に向かった。
「あ、ごめんなさい。その風来坊さんがここに来てるんです。あ、今、その人と代わりますね」
 若者が電話を代わってくれという仕草をしたので、ゆかりは電話機を渡した。
「もしもし、お電話かわりました。風来坊という者です。突然のご無礼、お許しください。先日、差しあげましたお手紙、読んでくれましたでしょうか」
『うん。手紙なら読んだよ。そうか。君が、あの風来坊くんか』
 若者は姿勢を正した。若者が、いや、これからは風来坊と書いておこう。風来坊が森和彦にあてた手紙、それはファンレターのようなもので、それにはいつかお目にかかってできたらサイクルショップで働きたいという希望も書いてあった。
『とにかく、ドールにいるのなら近いんだから、うちへ来てください。話はそれからでもゆっくり考えようじゃないか』
「ハイ、よろしくお願いします」
 風来坊は電話を持ったまま、頭をさげた。
『それじゃ、私は待ってるから』
 電話が切られた。ゆかりが声をかける。
「よかったわね」
「ありがとうございます。でもまだわかりませんから」
 風来坊は最後に頭をさげてからドールを出た。錠をはずして自転車にまたがると、さっそうと走り出した。午後の陽差しは強くなく、風も冷たかったが、着ていたままのウインドブレーカーでもあまり寒くなかった。レーパンの素足でもさほど冷たい感じはしない。
 街の中、往来の人びとや車を運転する人びとの注目が自然と集まるのは仕方のないことだった。この車社会で大荷物の自転車など珍しいのだろう。いや、自転車で旅をするなんて、考えたこともない人だっているかも知れない。偏見的な、そして懐疑的な視線の群れの中を、風来坊の自転車は黙もくと進んで行った。
 やがてモリサイクルショップの看板が見えた。風来坊は緊張した。
 同じサイクリスト同士とは言え、また同じ雑誌でお互いの存在を知り合っているとは言え、相手は伝説的な人間なのだ。自分はまだ二十代前半の青い小僧だ。失礼のないように、と風来坊は身を堅くした。
 自転車を店のまわりにとめた。店の前の歩道には展示用の自転車が置いてあった。マウンテンバイク(MTB)、あるいはオールテラインバイク(ATB)とも呼ばれる車種である。それらを眺めながら風来坊は自動ドアを踏んだ。スーッとドアが開く。
「いらっしゃい」
 五十代の男が整備していた手を休めずに声をかけた。森和彦である。とたんに風来坊はギクシャクした。
「あ、あの、風来坊です。はじめまして。よろしくお願いします」
 勢いよく頭をさげた。
「まぁそう堅くならなくてもいいから。ま、そこにかけなさい」
 森は丸イスを出して風来坊にすすめた。
「お茶でも入れよう」
「あ、おかまいなく」
 森はいったん店の外へ出た。かと思うと店の隣にあった自動販売機に小銭を入れて何かを取り出す。店に戻ると風来坊に差し出した。暖かい缶ウーロン茶だった。
「遠い所からよく来てくれたね。ご苦労さま。私は君のような若者を見ると本当に嬉しくなるんだよ。車があるのに、あえて自転車に乗ろうとするのだからね」
「はぁ」
 風来坊は返事に困って缶ウーロン茶をもてあそんでいた。
「今日はゆっくり休んでいなさい。君を泊めるくらいの部屋はあるから。さぁ、君の自転車を中へ入れて、バッグをはずすといい。部屋は私が案内しよう」
 それを聞くと風来坊は丸イスから立ちあがった。
「よろしくお願いします」
 風来坊は早速自転車を店の中へ入れ、フロントバッグやサイドバッグ四個をはずしにかかった。
「ほぉキャンピング車か」
 森が感心したように言った。
「今どき、まだ乗っている人が残っていたとはね」
 森はなつかしそうな目で風来坊の自転車を眺めた。キャンピング車、その名称通り、全国一周するような旅のための自転車である。たくさんの荷物を乗せるのでフレームもタイヤも太く、ハンドルはランドナー型ドロップバーだ。ギヤは二十一段で、インナーとローは一対一、長い登り坂でも少ない力でまわし続けていられるのだ。
「今はマウンテンバイクが流行はやっているのに、そんな古い車種にこだわるとはね」
「森さんも昔はキャンピング車で日本一周したんでしょう」
「昔は昔だからね。古いものより新しいものを好む今の若者にしては、はじめて見たよ」
「おれ、伝統を重んじますから」
「ふむ、そうか」
 森は話題を変えた。
「ところでさっきから気になってたんだが、君は足が」
「あ、大丈夫です。走ることはもうできませんが、何とか歩けるし、自転車も支障ありませんから」
「そうか」
 ようやく五個のバッグを取りはずした風来坊を、二階へ案内しようとしたところで、森は気づいた。
「階段は大丈夫かね」
「あ、ご心配なく」
「荷物、持とうか」
「あ、すみません」
 森はサイドバッグ二個を両手に持って先に階段をのぼった。風来坊は背にディパック、両手にサイドバッグを持って、森のあとにいた。体が左右に揺れているが、問題ないようだった。
「大丈夫かね」
「大丈夫です」
 風来坊は笑った。その笑顔を見て森は、強い、と思った。部屋へ案内しながら浴室やトイレ、キッチンなどのありかを教えた。
「汗かいたろう。シャワー浴びるといい。洗濯機も自由に使っていい。それじゃゆっくりしていってくれ。夕食の時は呼ぶから」
「わかりました」
 元気よく返事した風来坊を部屋に残して、森は階下へ降りた。風来坊は室内を見まわした。たたみ六畳の和室で向かって右側は壁、左側はクロゼットになっていた。正面はガラス窓でその手前には座机があった。その座机のそばにあぐらをかいた風来坊は、サイドバッグの中からタオルと着替えを出した。
「さて、シャワーでも浴びてこよっか」
 風来坊は階下へ降り、さっき教えてくれた場所を思い出しながら廊下を歩いた。脱衣室には洗濯機や洗面台などが備えてあった。脱衣カゴに汚れたTシャツとレーパンを脱ぎ捨てた風来坊は、浴室へ入った。温度を調節しながらシャワーを浴びる。一気に汗と汚れが流れて落ちた。

 その頃――
 モリサイクルショップの裏側は住居になっている。その勝手口に、ひとりの娘が入って来た。
「ふー、ちょっと疲れちゃったかな。ちょっとシャワー浴びよっと」
 そう言いながら浴室の方へ向かった。近づくとシャワーの音が聞こえてくる。娘は、おや、と思いながら、
「誰が入ってんだろう。まさか、おとうさん?」
 娘は腕時計をのぞいた。まだ三時前だ。いつもなら店の中である。娘は声をかけてみた。
「おとうさん、のんきなものね。お店はもうおわったの?」
 中から返事はなかった。
「おとうさんたら、返事くらいしたら」
 娘は勢いよくドアを開けた。そこは脱衣室だが、脱衣カゴには見たこともない衣服が入っている。と、その時、浴室のドアが開いた。シャワーをおえた風来坊が出て来たのだ。もちろん素っ裸である。
「あッ」「きゃッ」
 同時に目が合ったふたりとも、赤面になった。思わず顔に両手をあてた娘は走り去った。
「おとうさん!」
 店に出た娘が森をつかまえて叫んだ。
「お風呂場に知らない人がいるよ」
「何だ夕子、今日は早いな。ドールの方は行かなくていいのか」
「そんなことよりお風呂場を見てきてよ」
「風来坊が入ってんだろう。今日からこの家に住み込むことになったから、そのつもりでいてくれ」
 夕子はポカンとした。
「誰だって、今何て言ったの?」
「風来坊だ。住み込みで働かせようと思ってな」
「ふうらいぼう?」
 驚く夕子のうしろから、声があった。
「そういうことですので、ひとつ、よろしくお願いします。お嬢さん」
 振り向くと、着替えを済ませた風来坊がニコニコしながら立っていた。当惑する夕子に、風来坊は頭をさげた。夕子もあわてて頭をさげる。
「あ、こちらこそ」
 突然のことで夕子はただ途方に暮れるばかりだった。風来坊というヘンな人(?)がやって来たのだ――