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蒼い鶴の気になる物語/第四話

再不帰橋(さいふきばし)

 中国地方のある湖は、観光名所のひとつで、年中、多くの観光客でにぎわっていた。この湖の名は『再不帰湖』(さいふきこ)と言った。
 再不帰湖――
 地元の伝説によると、昔、この湖の主だった鮒(ふな)の一族の娘が、猟師の男に恋をし、人間の姿となって、猟師の男に近づいた。人間離れした娘の美しさに眼を奪われた猟師も恋をし、やがてふたりは深い契りを結ぶようになる。村の人びとも祝福してくれたが、それも束の間、産まれたのが人間の赤ん坊ではなく、魚の卵だと知ったときの驚きと恐怖が村全体を包んだ。たちまちふたりは追放され、湖に身を投げた。村の必死な捜索にもかかわらず、ふたりの死体は見つからなかった。それ以来、魚らしい魚もいなくなり、生命の枯れた湖になり下がってしまった。ふたりの怨念がそうさせたのだと噂もあった。この伝説から名の由来があったともされるが、真実は詳らかではない。
 この湖を僕が訪れたのは、年も押し詰った寒い日のことだった。この地方に住む高校時代の友人が、この湖で水死体で発見された。新聞でそれを知ったのは一週間前だが、仕事が忙しかったので、ようやく休日、ここへ来たわけだった。どのようにして死んだのか、また家庭や事情など何も知らなかったので、地元のY新聞支社を訊ねてみようと思っている。
 しばらく湖を眺めていた僕は、観光客とは別のところに、ひとりたたずむ女性の姿を認めた。女性というよりは、中学生か高校生のような少女だった。胸に花束を抱えている。冷たい風が髪の毛を乱れさせていた。その横顔は、どこか悲しそうだった。
 やがて抱えていた花束を湖に放り投げた少女は、手を合わせながら眼を瞑った。ふと、僕の視線を感じたのか、ぎごちない表情で、足早に僕の横を通り過ぎた。そのあとを追うように、僕は眼でうしろを振り返った。
 遠くなる背中を見送っていると、その視界に、彼女を遠くから見ている中年の男の姿があった。僕の視線に気づくと、男は軽く頭をさげた。
「Y新聞本社の蒼川記者ですね」
「はぁ、蒼川です」
「お待ちしておりました。Y新聞支社の松坂です。さ、どうぞ、こちらへ」
 松坂記者は僕を促がすように先に歩き出した。
「ここは寒いですから、どこかお茶でも飲みながら話しましょう」
「よろしくお願いします。ところで」
 歩きながら僕は松坂記者の横で訊いた。
「さっきの女の子はご存知ですか」
「あぁ、あの子ね、よく知りませんが、村上謙太の妹らしいんです」
「村上の妹?」

 村上謙太(むらかみけんた)――
 高校時代の友人で趣味が読書だったので、僕とはよく本や小説のことについて話し合った。クラスはちがうが、昼食休憩時間で、外の芝生などでひとり本を読んでいるところをよく見かけていたので、何となく声をかけたら、以来気の合う友人になったのだ。
「なぁ、蒼川くん。僕は将来小説家になるつもりでいる」
「ほぉ、小説家になるのか」
「小説はもちろんフィクションだけど、職業の中でいちばん人間臭いと思うね」
「それはまた意外な。人間臭いとはどういう意味だ」
「表面だけじゃなく、心の裏側も描いているから、人間なんて、何て浅ましい生きものだろうと考えてしまうじゃないか」
「確かにそうだな」
「いろんな人間や世界を書くから、何となく神さまになったような気分になる」
「創造の神、か」
「それでいて人間臭くなるんだ」
 このような話題ばかりで、お互い家庭のことは何ひとつ触れなかった。高等学校には地方出身の学生のために寄宿舎を設けてあって、村上謙太はそこの寄宿生だった。毎日逢うわけではなく、一週間に二日か三日、それも昼食休憩だけだったから、話題は本や小説のことしかなかった。そして、卒業のとき、握手を交わしただけで、そのまま別れたのだ。
 それ以来、約五年も逢っていない。その存在も忘れていた。一週間前、新聞で村上謙太が水死体で発見されたという記事の写真を見て、思い出したくらいだ。
 記事によると、その朝、散歩に出かけていた村上謙太が、誰もいない再不帰湖の観光用橋から滑り落ちたと言う。木造の吊橋でだいぶ古くなっていて、安全対策も何もなく、地元の観光協会の予算もなく、改善もされないまま、このような事故が起こった。近くを通りかかった散歩の人らの通報で、地元の警察や消防隊は出動したが、水が深く、肌も凍るような水温だったので、おぼれる前に、心臓麻痺を起こしたらしく、深く沈んでいったために、捜索が難しくなった。朝もやが酷く、一向に晴れてくれないので、周囲がよく見えない一日だった。
 単なる事故だ、と地元警察署やマスコミはそう見ていた。Y新聞支社の松坂記者から事故の様子を聞いた僕は、お礼を述べたあと、村上謙太の実家へ行くことにした。一週間前の新聞で知ったのだが、村上謙太はこの地方出身だった。
 湖は国立公園の中にあって、そこを出ると、畑や田んぼが周辺に広がった。冬だから水田、あるいは草のようなものしかない。畦道を僕はしばらく歩いた。
 やがて、松坂記者が教えてくれた村上謙太の住居へたどり着いた。玄関に呼び鈴らしいものが見つからないのでノックしようと思ったが、声をかけることにした。
「ごめんください」
 しばらくすると、玄関が開かれた。出て来たのはさっきの少女だった。僕の顔を見た少女は少しびっくりしたようだった。僕は頭をさげながら名刺を出した。
「僕は蒼川健作という者です。村上謙太くんとは同じ高校の友だちでした。線香をあげさせてください」
 名刺を受け取った少女は黙ったまま、僕が通りやすいように、玄関を大きく開けた。うなずきながら、どうぞ、と右手で示した。
「失礼します」
 僕は先を行く少女のあとに従いながら廊下を歩いた。さっきから気づいたのだが、少女はひと言も声を発していない。
 仏壇のある和室へ案内されると、僕は正座してしばらく合掌した。それを終えると、正座を崩した。和室には大きなテーブルがあった。少女の姿はない。が、お茶を持って来て現れた。
「おかまいなく」
 僕が言ったあと、少女はスケッチブックを開いて僕に見せた。
『わざわざありがとうございました』
 マジックペンで女の子らしい丸い字体で書かれてあった。僕はとっさに思いついて、両手を動かして見せた。
『聴覚障害者?』
 僕の手の動きを見た少女はとてもびっくりした様子だったが、少女の両手も動き出した。それは『ちがう』という意味の手話だった。続けてまた少女の手が動く。
『手話、できるんですか』
『まだ、すべて、できない、が、あいさつ、自己紹介、指文字、ちょっとの会話、できる』
 僕の手話を読み取った少女は改めて手話を返した。
『わざわざ、ありがとうございました』
 線香のことだった。
『あたし、声は、出ない、けど、耳は、聞こえます。だから、あなたは、普通に、声を出して、かまいません』
「あ、いや、この家には誰かいませんか。君のほかに」
『仕事で、家にいません』
「ご両親は仕事ですか」
 少女はうなずいた。
「ところで、君は村上謙太くんの妹さんですか」
 少女は首を横に振った。
「あ、ちがうんですか。失礼しました」
 僕は頭をさげた。少女の手を見たが、ちょっと意味がわからなかった。『似ている』の手話のような気がする。
「ん、似ている?」
 少女は首を横に振りながら、指文字で答えてくれた。
「い、と、こ。あぁ、従妹(いとこ)ですか」
 少女はうなずいた。『似ている』と『親せき』の手話は似ているので、意味が混乱する。僕はあることに気づいた。
「すると、お父さん、お母さんというのは君の?」
『叔父さん、叔母さん、です』
「あぁ、なるほど」
 しばらく沈黙があった。
「ところで」
 僕の声に、少女は僕の顔を見つめた。
「大変失礼かも知れないけど、声が出ないのは生まれたときからですか。それとも何かの事故、あるいは病気で」
 一瞬少女の顔が曇ったように見えた。何か言いたくない事情だと察したので、僕は慌てて打ち消した。
「あ、いや、他人の僕が質問する内容ではありませんでした。申し訳ありません。訊かなかったことにします。忘れてください」
 少女は遠慮そうに手を動かし始めたが、すぐやめた。
「ん、何か」
 少女は迷っているふうだったが、手話を始めた。
『もし、よかったら、謙ちゃんの、部屋、見ますか』
「お邪魔でなかったら」
 少女は先に立って和室を出た。僕もそのあとに続く。二階への階段をのぼると、奥にあるのが村上謙太の部屋だった。少女が開けてくれた部屋の中へ、僕の足は踏み入れた。
 読書家らしく、本棚に小説の本がたくさん並んでいた。部屋というよりは書斎のような感じだった。机にはノートパソコンがあった。
「このパソコンは謙太くんのものですね」
 少女はうなずいた。手話を使う。
『でも、事故の、あと、誰も、見て、いません。警察も、新聞の、人も、起動して、みようとした、けど、ダメ、でした』
「パスワード、ですね」
 僕はパソコンの中に何か秘密があるのじゃないかと睨んだのだが、パスワードを解釈しない限り、それらは永遠の謎と言えるだろう。
「謙太くんはパソコンについて何か話したことはありませんか。たとえば趣味のことや会社のこと、友だちとか交友関係のこと、など」
 僕の問いに、彼女はことごとく首を横に振った。
『謙ちゃん、パソコンの、お話は、しませんでした。あたしが、パソコンで、何を、してるの、と訊いても、答えて、くれません。画面を、見よう、としたら、謙ちゃん、怒りました』
「謙太くんが怒った?」
 少女はガックリするように首を前に落とした。僕は腕時計を見た。午後四時前だ。
「ご両親は何時に帰って来ますか」
『おばさんは、五時。おじさんは、七時頃、です』
「そうですか」
 僕はちょっと思案した。
「じゃ、七時過ぎにまたここへ伺います。ご両親に、謙太くんのパソコンを起動する許可をもらうために」
 少女はびっくりした顔で、手話をした。
『起動、できるんですか』
「パスワードはわからないが、何とか起動してみます」

 その夜七時過ぎ、僕はふたたび村上謙太の住居へ行き、改めて両親にあいさつを済ませたあと、謙太のパソコンを起動する作業を始めた。僕が推理したパスワードはどれもこれも合わなかった。記号も番号も合わない。特殊な設定で他人がどのような方法でも起動できないようにしてあった。こうなったら徹夜するつもりだ。そのことは両親にすでに話してある。
 何時間かかっても村上謙太のパソコンを起動することはできなかった。東の空より朝陽がのぼって来るに連れ、部屋の中がだんだん明るくなる。人さし指と親指で両の眼を押しながら僕は、窓の外を眺めた。朝もやのかかる風景の中、遠くに湖が見えた。再不帰湖だった。ドアにノックがあった。
「ハイ」
 僕が返辞すると、部屋に入って来たのは従妹の冨子(とみこ)だった。
『おはようございます』
「おはよう」
 冨子はパソコンのほうをチラッと見ながら、
『わかりましたか』
 僕は首を横に振った。
「ダメだった。思いつくまま、心あたりのものを考えたんだが、どれもこれもパスワードが合わなかった」
 冨子は力なくうなずくだけだった。それから両親の誘いで朝食を一緒にと勧められたが、丁重に断って、僕はひとまずこの住居を離れることにした。Y新聞支社にも寄って松坂記者に逢っていろいろ事情を聞いたあと、鉄道で帰った。

 それから二、三日後、僕の携帯電話に一通のメールが来た。
《冨子です。先日は謙太さんのためにわざわざ遠くからありがとうございました。パソコンのことですが、今日、謙太さんの会社の者だと名乗る伊原さんが、持って行かれました。何でも重要なビジネスだということでした。おじもおばもあたしも居合わせたのですが、伊原さんはパスワードのことなど何も訊かずに、預かる、と言ってパソコンを持って行ったのです》
 僕はすぐ返信のメールを出した。
《蒼川です。早速知らせてくれて、ありがとう。しばらく様子を見てください。と言っても、その伊原と名乗る者は二度と来ることはないと思います。また、何かあったらメールをください》
 もしや、と僕は思いあたることがあった。村上謙太のパソコンに何か秘密があるのじゃないかと睨んで以来の連想で、村上謙太の勤めていた会社の企業機密が隠されているんじゃないか。
 インターネット関連企業のひとつ、『ラクー』(Rakoo)はIT業界の大手とも呼ばれる会社で、ネット販売、ネットオークションのシェア(市場占有率)は業界ナンバーワンだった。その社長や関連企業のひとつ(マーケティング)の幹部が証券取引法違反などで逮捕され、公判中であることも新聞に出ていた。
 村上謙太はラクーに勤めていた。どういう部署でどういう役職かはわからないが、伊原と名乗る人物がパソコンを持ち去るほどだから、よほどの重要かも知れない。
 僕は早速ラクーの本社を訪れてみた。もちろん新聞記者としてである。人事部署の人に逢って、村上謙太のことを聞き出した。真面目で仕事振りもよく、大きな失敗もなく、かと言って大きな成功もなく、あまり目立たない存在だったと言う。交友関係もあまりなく、常に孤独だった。女性との噂も聞かない。仕事の内容は主にWebページ制作担当で、誤字・脱字・文章のまちがいなどの指摘や清書などを受け持っていた。
 それらを聞いたうえで、僕はラクーに伊原という人物はいないかと尋ねた。人事部署の人は名簿を出して調べ出したが、いくら調べてもそういう名前の人はいないということだった。
 礼を言ってラクーを辞した僕は、思案に暮れた。伊原という人物はいったい何者で、村上謙太はいったい何をパソコンに残したのか。いくら考えてもわからない。
 だが、いつまでもこのことばかり考えているわけもいかなくなった。新聞記者の仕事が忙しく、冨子からのメールもなかったので、だんだん忘れるようになった。
 そんなある夜、仕事から自宅へ帰った僕は、いつものようにパソコンを起動してメールをチェックした。最近スパムメールやらアダルトサイト勧誘メール、出会い系勧誘メールなど、いわゆる迷惑メールが頻繁に来るようになった。それらはメーラー(メールソフト)の設定で削除メールフォルダへ自動的に送るので、眼を通さないまま削除している。内容は見ない。もちろん復元することはできない。それらの中でkenta@rakoo.ne.jpという差出人のメールがあった。
「けんた、ラクー。まさか、村上謙太か」
 不思議に思いながら僕はそのメールを開けてみた。だが、裏切られた。内容は女性のヌード写真が何枚かあって、下のほうにWebサイトアドレスがあった。これもアダルトサイト勧誘メールだ。
「けんたなんてありふれた名前だ。僕はどうかしている」
 腹が立った僕はそのメールを削除した。そのとき、僕の脳裏にひとつの閃光が貫いた。仕事でWebページ制作を担当していた村上謙太は、もしかすると、自分のWebサイトも制作し、運営していたのではないか。インターネットに出ているのなら、何とか探し出す方法はある。村上の勤めていた会社・ラクーでもフリーメールやサイトスペースなども提供している。
 僕はすぐ、ネットでラクーのWebサイトへつないで、人事部署のメールアドレスあてにメールを出した。村上謙太のメールアドレスとWebサイトアドレスを問い合わせるための内容だ。数分後、その返信が来た。村上謙太のメールアドレスしか記してなかったが、それを見たとき、僕の頭は強く殴られたように感じた。
「な……!」
 kenta@rakoo.ne.jp
 それはさっきのアダルトサイト勧誘メールの差出人ではないか。どういうことだ。まさか、村上謙太はアダルトサイトを運営していたと言うのか。だからパソコンの内容を家族の誰にも見せなかった。画面を覗こうとした冨子を怒ったのも、何となく肯ける。僕は後悔した。さっきのメールを削除しなければよかった。下のほうにあったWebサイトアドレスにアクセスして、その内容を確認してみたかった。
 しかし、待てよ……
 村上謙太は死んだではないか。再不帰湖に落ちて水死体となったのは、もう一か月前だ。すると、村上謙太のパソコンを持ち去った伊原という人物が怪しいことになる。いったい何者なのか。
 再不帰湖――
 ふたたび帰らぬ湖、という名の由来は冒頭に書いてある通りだが、何となく、パソコンの<復元不能>という連想につながるようで、僕は気になった。早速、検索で再不帰湖というキーワードを記入し、その結果出て来た膨大な情報を、辛抱強く整理した。それは徹夜になった。

 翌日の午後、僕はふたたびこの地方へ、そして再不帰湖の辺(ほとり)に来た。近づく人影が、僕の名を呼んだ。
「蒼川さん、また何か」
「お呼び立てして申し訳ありません」
 僕は松坂記者のほうへ向きなおった。
「松坂さん、この湖には五年前にも事故が起きましたね」
「五年前……」
 松坂は思い出すような顔で、
「あぁ、あの事故ですか」
「五年前の夏、ひとりの中年の男がこの湖に落ちて亡くなった。その人の名は村上勇(いさむ)。村上冨子さんの父親です」
「そうでしたな。蒼川さん。よく調べましたな」
「その頃の冨子さんはまだ中学生だった。それ以来じゃないですか。声が出なくなったのは」
「うむ。そうかも知れません。その事故がきっかけであの家族と知り合ったのですから」
 五年前の夏、それも海水浴シーズンの時期、湖周辺でお祭りがあって、村上勇と冨子の父娘は遊んだり食べたりしながら仲よく散策していた。そしてクライマックスの花火の時間、ふたりは湖をのぞむ高い崖にいた。落下防止の柵もない自然のままだ。次つぎに打ち明けられる花火を楽しんでいるときに、酒を飲んで酔っていた勇の足が滑り、崖から落下した。もちろん冨子の叫び声があったはずだが、花火の大きな音のために、誰も聞くことができなかった。崖下に急ぎ降りた冨子の泣き叫びを聞いた人びとはすぐ湖の捜索にあたったが、夜のことで暗く、容易に見つからなかった。やっと見つかったのは翌日の午後で、すっかり変わり果てた父の姿を見ても、冨子はなぜか近づこうともしなかった。それ以来、声を出せなくなった。母親は冨子の幼い頃病死しているので、勇の弟夫婦(冨子にとって叔父、叔母)の家で暮らすようになった。
「私も休暇でお祭りを楽しんだあとの翌日だったから、よく覚えておりますよ。冨子さんは恨みを込めた顔で父親の死体を睨んでいました」
「恨みを込めた顔で?」
 松坂はうなずいて、
「そして、ひと言呟くのが、私にはなぜか聞こえたんですな」
「ひと言。何を言ったんですか」
「不潔、と」
「不潔。父親に対してですか」
「そうとしか聞こえませんでした」
「警察の調べでは事故となっているんですか」
「どう見ても事故でしょう」
「そうですか」
 僕はちょっと思案したあと、
「松坂さん、伊原という人物を知りませんか」
「伊原、伊原泰助(たいすけ)のことですか」
「名前まではわかりませんが、ご存知ですか」
「蒼川さん、知らないんですか」
「え?」
「同じ高校の同期生ですよ。村上謙太の」
「村上謙太の同期生!」
 それはうかつだった。そうだ、思い出した。伊原泰助、高校では不良グループのひとりだった。暴走族ともつるんでいて、恐喝や暴行、ケンカなど非行の限りを尽くしたあげく、退学したのだ。すっかり忘れていた。
「今、伊原泰助はどこにいるんですか」
「そんなことまで私は知りませんよ」
「あ、いや、どうも失礼しました」
 僕はすっかり自我を失っていた。伊原泰助に村上謙太のパソコンを奪われてしまった以上、もはや確実と言えた。信じたくないことだが、ふたりは共同でアダルトサイトを立ち上げ、迷惑メールをばら撒いたにちがいない。いや、仲間割れして伊原が村上を殺すために、この湖へ突き落としたかも知れない。
 あれこれ考えていた僕は、不意に視線をある一点にとどめた。例の高い崖だ。その崖の上に、誰やらふたりの影があった。遠くて見えないが、男と女のようだ。女が誰かとわかったとき、僕の足が前に出た。走る。
「あ、蒼川さん?!」
 あとから松坂も追いかけた。とにかく僕は走った。走って、走って、また走る。

 崖の上には、男と女が立っていた。
「約束通り、金を持って来たか。おら、十万だ」
 男の脅し声に、女、いや、少女はびくびくしながらバッグから何かを取り出そうとした。手元が震えているのは、決して寒さのためではなかった。大金を期待していた男の両の眼が大きくなった。少女の手に持ったものは、果物ナイフだった。
「何をしやがる!」
 勇気をふるってナイフを突き出す少女だが、手元が狂い、足も極度の震えのために転んだ。男が叫ぶ。
「このアマー!」
 男は少女の右手からナイフを奪った。転んだままの少女の体の上に馬乗りになり、ナイフを持った右腕が一気にあがる。
「死にてぇのならぶっ殺してやる!」
 少女の顔が恐怖のために横を向く。同時に両腕が顔をカバーする。まさに殺されようとするとき、何かが飛んでくるものがあった。それが男の顔にあたる。あたった物は石のつぶてだ。
「イテッ」
 うしろ向きに倒れ、ナイフを落とした男を、右足で一気に蹴り飛ばす者があった。男はうしろの方向へ大きく転げまわった。起きなおした少女の顔が安堵した表情になった。転んだ男が怒鳴る。
「だ、誰だ、テメーは?!」
「忘れたのか、蒼川健作だ」
「何、蒼川だぁ?!」
「伊原泰助。村上謙太のパソコンを奪ったのはなぜだ」
「オレの大事な商売道具だ」
「アダルトサイトが商売道具だと言うのか」
 伊原は僕の体に体当たりするように頭を低くして駆け出す。それを躱すが、逆に伊原の両腕が僕の体を掴み取った。身動きできない。伊原の腕が僕の体をうしろ向きに倒した。ふたりとも地面に転げまわる。下になった僕の体を伊原が馬乗り。僕の顔が殴られる。二発目も来たが、僕の左腕が防御。余った右手の拳が伊原の頬を直撃。それでも伊原の体は放れない。伊原の右手が僕の顔を目がけるとき、僕の右足があがってひざ蹴りで伊原の後頭部を叩いた。
「テッ」
 痛みに顔を歪めた伊原は横に倒れて僕の体から離れた。腹筋で起った僕はその勢いで右足を伊原の顔にぶつける。伊原の鼻から一気に血が出て、その体が崩れ落ちた。その様子を見た僕は乱れた呼吸を整えた。
 少女、冨子はハラハラしていたが、僕の視線を捕えると、笑顔になって一気に僕のほうへ駆け寄った。僕の胸へ飛びついて、泣き出した。声なき涙だった。ふと、冨子の眼が薄く開けたとき、何を見たのか、驚く表情になった。
「あぶなぁい!」
 ハッとした僕が振り返ると、伊原は両手に木の棒を持って、執拗に迫って来るところだった。とっさの反応で僕は冨子をかばった。木の棒が僕の背中を叩く。
「……!」
 想像以上の痛みが背中に走った。僕は冨子を放した。
「早く逃げるんだ!」
「ハイ!」
 僕は伊原に向かって突き進んだ。僕の肩が伊原のあごを砕く。僕の右手のチョップが伊原の両腕を叩き、木の棒を落とさせる。続いて僕の右手が伊原の襟をつかみ、もうひとつの左手は伊原の右腕をつかむ。そのままの姿勢で一気にうしろへ引き、伊原が前によろけたのを利用して、うしろまわりで投げる。柔道の背負い投げだ。大きくまわった伊原の背中が地面に落ちた。痛みのために失神しているが、これ以上暴れないように、伊原のズボンからベルトを奪って、腰の所で両手を縛った。足はどうするか。乱闘のために伊原のマフラーが落ちているのを見つけたので、それを拾って、伊原の両足をきつく縛った。これで当分動けまい。
「蒼川さん!」
 声があったので、振り向くと、冨子と松坂の姿があった。松坂が息を切らしながら近づく。
「蒼川さん、大丈夫でしたか。どこか、怪我は」
「あ、いや、大丈夫です。大したことありません」
「そうですか。いやぁ、若いっていいもんですな。あんな石ころだらけの坂道を駆け登って」
 少し苦笑いした僕は、チラと冨子のほうを見た。僕の視線を捕らえた冨子は、恥かしそうにうつむいた。
「冨子さん。伊原は君に何をやったんですか。それとも何をやろうとしたんですか」
 冨子は答えようともしなかった。
「恐喝、じゃないですか」
 それでも冨子は答えない。
「冨子さん。さっき、声を出しましたね。あぶない、って。声が戻ったんじゃないですか」
 冨子の顔がハッとしたように僕のほうへあがったが、また下へ向く。冨子の小さな体がいきなり震え出した。それは寒さのためではなく、何か秘密が暴露されたための恐怖のように思えた。
「テメー、コラァ。このナワをほどけぇ!」
 気絶から気がついた伊原が大声を出した。僕は松坂に言った。
「松坂さん。すみませんが、警察を呼んでくれませんか。女性に乱暴しようとした男を捕まえたので、迎えに来てくれって」
「わかりました」
 松坂はたちまち自分の携帯電話で警察を呼んだ。
「何言ってやがんでぇ。女のほうがナイフを持ってたじゃねぇか」
 伊原が叫ぶのを聞いて、僕は周囲を見まわした。
「ナイフってあれのことか。残念ながらおまえの指紋しかないと思うね。おまえは素手だ。彼女はあの通り手袋をしている」
「チクショー、ふざけやがって」
 伊原は体を動かそうとしたが、それは芋虫のようにしか見えなかった。
 それから間もなく警察が来た。伊原泰助は連行され、村上冨子は保護されるとともに、僕らは警察の車に乗った。

 数時間後、警察署に迎えに来たおばのもとへ近寄る前に、冨子は傍に並んで待っていた僕の顔を見やった。僕はうなずいた。冨子の頭が深くさがったあと、いそいそとおばのほうへ向かった。かと思うと、もう一度僕を見た。今まで見たことのない笑顔だった。
「蒼川さん」
 冨子の声に、おばがひどくびっくりした。
「冨ちゃん。あなた、声が」
 おばの声を無視して、冨子は礼を述べた。
「ありがとうございました」
 言ってから、また深くお辞儀をした。おばも頭をさげる。僕もお辞儀を返した。おばが運転する車へ冨子が乗り込むと、車は発進して暗闇の中へ消えた。
 翌朝の新聞には次のような記事があった。
《再不帰湖をのぞむ崖で、男が少女に暴行を加えようとした所へ、通りがかりの観光客によって取り押さえられ、居合わせた新聞記者の通報によって警察に連行された。加害者は伊原泰助(二十五歳)で、暴力団に入っていて、これまで恐喝、暴行を繰り返した。なお、警察の調べによると、一か月前に同湖で事故で亡くなった村上謙太さんと共同で有料アダルトサイトを運営し、法外な入会料金や閲覧料金などを取って、生活や遊びのために荒稼ぎしたことがわかった》
 時が過ぎれば、心も人格も変わるのか。僕は村上謙太に失望した。その翌朝の新聞にはさらに衝撃的な記事が載っていたが、ある程度、推理していたからあまり驚かなかった。
《昨日、再不帰湖をのぞむ崖で、少女に暴行を加えようとした伊原泰助容疑者の供述によると、被害者の少女は村上謙太の親戚で、五年前、同湖で事故で死亡した村上勇さんの長女(十七歳)であることがわかった。伊原容疑者は、あれは事故ではなく、娘が父親を崖から突き落とした、と供述している。その真相を調べるために、警察は目下捜査中である》
 ついに恐れるべき時が来てしまったのだ。冨子が父親を崖から突き落とした。それは殺意あっての行動ではない。動機は冨子が呟いた「不潔」から推理できるではないか。
《再不帰湖は呪われた湖か》
 さらに次の翌朝の新聞には、そのような大きな見出しがあった。記事は次の通りだ。
《任意出頭を願った少女の供述によると、五年前の事故は、自分が父親を突き落としたことを告白した。その動機は父親に犯されたからだと言う。酒に酔った父は、獣のような荒い息づかいで自分を犯した。それが許せなくて、崖から突き落とした、と少女は涙を流しながら話した。一方、当時の現場を目撃したという伊原泰助容疑者は、そのネタを利用して、少女の親戚であった同じ高校の同期生・村上謙太を脅し、脅迫的にアダルトサイトを作成させたことがわかった。なお村上謙太が死亡した事件については、伊原容疑者は否認している》
 そうだったのか、僕は納得した。五年間も有料アダルトサイトを運営し、伊原泰助のために金を騙し取った行動は、良心が麻痺するところか、反って苦悩する元になっただろう。もしかしたら、再不帰湖で死んだのは、自ら死に場所を選んだのかも知れなかった。いや、たとえ殺されたとしても、世間は共犯だとしか見ない。
 ただ、気がかりなのは、村上冨子のことだった。あのか細い少女は、世間の荒波に耐えられるだろうか。警察や検察、裁判、マスコミなど、たとえ未成年法に守られることがあっても、繊細な精神はもろく、壊れてしまいそうだ。
 再不帰湖――
 鮒の一族の娘は、猟師の男に恋をするために人間になったと言う。それで彼女は幸せだったのだろうか。環境も運命も何もかも受け容れられなくなるとき、命は自ら絶つものか……
 だが、僕の予想とは裏腹に、世間の眼は冨子に対して批判的よりむしろ同情的な表れがあった。裁判のなりゆきが気になるが、無情な判決に終らないことを祈るしかなかった。再不帰湖という現実に眼をそむけることなく、真実を語ろうとする村上冨子こそ、鮒の生まれかわりではなく、誰もが安心して渡れる<希望の橋>となるだろう。
 僕は、そう信じることにした。