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蒼い鶴の気になる物語/第五話

虚像闇街(きょぞうあんがい)

 この地域に大衆食堂『ふるさと』が建っていた。この食堂の店主は古田里子(ふるたさとこ)と言って、十五年前どこからかやって来て、経営不振のために経営者のなかった古い食堂を借りて以来、建てなおしながら経営を切り盛りしていた。現在も人気が衰えず、この地域のみならず、ほかの地域、ほかの地方からはるばる来る客もあった。ひとつは地域の口コミもあったが、それ以上にグルメ関係の雑誌の紹介記事による影響が大きかった。人気メニューのひとつ、『ふるさと定食』はご飯とみそ汁、新鮮な野菜と旬の魚の盛り合わせで、低価格なので、とくにヘルシー志向の若い女性たちの人気があった。
 古田里子、略して『ふるさと』というマスコミもあったが、本名なのか、わからない。年齢は四十代、人柄は朗らかでとても明るかった。
 食堂を経営する傍ら、児童相談のボランティアもやっている。学校という集団で友人関係やいじめ、成績、家族、そして自己という存在理由などに思い悩む子どもたちの相談相手として、多くの子どもたちに接してきた。教師やPTA、教育委員会にも地元の非営利団体(NPO)にも認められるほど、地域にとってかけがえのない、母親的な存在として、実の親以上に慕われてもいた。

「いらっしゃい!」
 食堂へ来客があったので、古田里子は笑顔を向けた。
「あら、みっちゃん。元気そうじゃない」
「お久しぶりです」
「どうぞ」
 羽沢美鶴だった。カウンターの席に座ると、里子は冷たい水の入ったコップを差し出した。美鶴は注文する。
「ふるさと定食をお願いします」
「ハイ」
 早速調理を始めた里子は、忙しそうに手を動かしながら、美鶴に声をかけている。
「みっちゃん、最近きれいになったわね」
「あら、それほどでも」
 美鶴は苦笑いしながら片手を軽く振った。
「髪の毛、短くなったから見ちがえちゃったけど、みっちゃん、何かあったの?」
「別に。ただそろそろ切ろうかなと思っただけ。気分転換ね」
「髪は女の命と言うからね。みっちゃん、失恋でもしたの?」
「ま、まさかぁ」
 美鶴はしどろもどろになった。そんな会話をしながら、里子は調理を完成させた。
「お待ちどうさま」
「いただきます」
 両手を合わせた美鶴は割り箸を取って食事にかかった。ふと、つけっ放しのテレビがニュースを放送した。洗い物をしながら何気なく聞いていた里子の表情が急に驚いたかと思うと、テレビを釘づけにした。
『インターネット関連企業経営者の娘、素藤麻衣(すとうまい)さんが何者かに誘拐されたとの、警察の発表がありました。素藤麻衣さんは地元の高校に通う二年生で、友人たちと遊びまわったあと、帰宅に向かったが、自宅に戻らぬまま、消息不明になり、家族が捜索願いを警察に届け出たところ、昨夜、父親の敬之(たかゆき)さんのメールアドレスあてに、娘をあずかった、身代金として一千万円用意せよ、という内容のメールが来たことから、警察は公開捜査に踏み切ることにしました。なお、犯人と思われる差出人のメールアドレスは次の通りです』
 テレビの字幕にメールアドレスが流れた。
 blue@drhp.org
「えっ?!」
 食事をしながらチラチラテレビを見ていた美鶴は、絶句したまま、口に運ぶ途中の食物をこぼした。
「みっちゃん!」
 美鶴の様子に気づいて、我に返った里子が注意した。
「食べものをこぼすなんて、みっともないわよ」
「あ、ごめんなさい」
 表面冷静に装っても内面驚きを隠せなかった。里子は素藤麻衣という名前に驚愕し、美鶴は犯人のメールアドレスに絶句したのである。食事を続ける気がしなくなった美鶴は席を立った。
「ごちそうさま」
「あぁ、みっちゃん。毎度ありがとう。またいらっしゃいね」
「ハイ」
 代金を支払って食堂を出た美鶴は、すぐ携帯電話を取り出した。電子電話帳機能で目当ての電話番号を見つけると、通信をかけた。仕事中なのか、なかなかつながらず、代わりにメールを送った。
『美鶴です。今テレビのニュースで知ったけど、ブルーのメアドが誘拐事件の犯人に使われているみたいなの。充分気をつけて、何かわかったら連絡をください』
 美鶴が送信した相手、ブルーこと蒼川健作は今、大変な境遇に巻き込まれていた。

 素藤麻衣は高校二年生で勉強も運動もそこそこ、友人は数多くあった。放課後はいつも気の合う仲好しグループで行動していた。ゲーセン、プリクラ、サテン、カラオケ、コンビニなど、女の子たちの集まる所、若者たちがたむろする所などにはよく遊びまわった。
 二日前の夜も、麻衣は遊びまわっていた。友人たちと別れて、ひとりで帰宅に向かった。交通量もあまりなく、人家もまばらな寂しい地区である。不意に背後から車の音を聞いたかと思うと、いきなり青い車が麻衣の前に現れて停まった。
 驚いて立ち止まった麻衣の前に、運転席のドアが開き、男が現れた。青いボディカラー同様、青い背広を着た背の高い男だった。暗くてわからないが、二十代だろうか。
 男の右手がいきなり麻衣の口に伸びた。男の右手にはハンカチがあって、意識を失わせるのに充分な量の薬物が塗ってあった。たちまち麻衣の意識が失われ、その体が崩れ落ちた。それを抱き止めた男は、車の後部座席へ運び込んだ。あざやかな手口であった。
 数時間後――
 ハッと覚醒した麻衣は、周囲を見まわした。薄暗い照明で、どこかホテルの室内のようだ。ベッドの上にいたのだが、制服のままだ。どこも乱れた様子はない。
「ここは、どこ」
 周囲を見まわしながら不安そうに声を出す麻衣の耳に、ドアを開ける音が入った。そのほうへ顔を向けると、青い背広の男が入ってくるところだった。その口はニヤリしている。
「眼が覚めたようだね」
「だ、誰?!」
「僕か。僕は蒼川健作という者だ。人はブルーと呼ぶ」
「ブルー……?」
 麻衣は何か思い当った。
「じゃあ、あの出会い系サイトのカリスマプレイボーイだという」
「これは光栄の至りだ。ならば僕の目的を聞かずともわかっているだろう」
「あ、あたしをどうするつもり?!」
 麻衣は怯えながら室内を駆けまわった。ドアを開けようとしても鍵がかかっていて、びくともしない。窓を開けて見たが、外は闇夜の街で、おまけに眼もくらむような高さだ。地上何階だろうか。
 顔面蒼白の麻衣に少しずつ近づく男の表情には冷酷的な余裕が漂っていた。右手には赤い液体の入ったワイングラスがあった。麻衣の眼にはそれが真っ赤な血のように見えた。
「そんなに恐がらなくてもいいじゃないか。僕は知ってるんだ。君のもうひとつの顔をね」
「え?」
 意味が理解できなかった麻衣に対して、男は左手で何かを見せた。パソコンのプリンターで印刷したもので、水着姿の少女がベッド上でセクシーポーズを取っている画像だった。
「そ、それは?!」
「そう。君のもうひとつの顔、ネットアイドルとしての画像だ」
「……だから、何よ」
 それまで怯えていたのがまるでウソのように、妙に開き直ったかのような態度を見せた麻衣は、制服の上着を脱ぎ始めた。リボンをはずし、ワイシャツのボタンもはずすと、豊満な胸を包んだ白いブラジャーが露出した。
「要するに、あたしを抱きたいんでしょ」
「フッフッフ、さすがはネット界のエンコーガールだ」
 ワインを飲んだ男の右手からワイングラスを奪い取った麻衣は、まるでジュースを飲むようにワインを口に含んだ。
「おいおい、未成年じゃないか」
「いいの」
 男と麻衣はお互いの体を抱きながら、ベッドの中で夜を明かした。

 Y新聞記者、蒼川健作が容疑者として逮捕されたのは、羽沢美鶴が大衆食堂『ふるさと』でテレビのニュースを聞いてから一時間後のことだった。
 たしかにメールアドレスは蒼川健作のものだが、誘拐のことや素藤麻衣のことなど、身に覚えのないことだらけで、無実だ、ぬれぎぬだ、と警察の取調室で主張するばかりだった。警察のほうも、蒼川健作のアリバイ(現場不在証明)を調査した結果、社会部記者という職務のためか、いつも多忙で他人と接触しない時間はないほどだった。
 一方、誘拐犯からの身代金要求メールが来て以来、一千万円を用意した父親の素藤敬之は、犯人が指定した場所へ赴いた。もちろん警察も犯人側に気づかれないように、尾行・潜伏しているのは言うまでもない。
 指定時刻になると、犯人らしき男が素藤敬之に近づいて来た。黒っぽい野球帽と濃いサングラス、マスクをつけている。小太りだ。
「金は用意できたか」
「娘は、娘はどこにいる」
「ちゃんと返すから金をよこせ」
 金が入ったカバンを乱暴に奪い取った男は、逃げるように走り去った。そのあとを警察が尾行する。そして隠れ家を突き止めると、男を逮捕した。素顔は三十代前半の貧相な男だった。誘拐した娘の居所を問い質す警察に対して、男は体をワナワナ震わせながら自白した。
 武田正人(たけだまさと)と言って、半年前に会社をリストラされ、再就職活動中で派遣社員やら日雇い、アルバイトなど仕事を転てんしていた。これと言った資格も特技もなく、長続きしなかった。現在、失業中で金も底を突いてしまった。
 そんなとき、ケータイのインターネットで『金を簡単に手に入れる方法、教えます。売ります。買います。あるいは、一緒に稼ぎませんか』というサイトを見つけた。一種の闇サイトだ。
 元来ギャンブル運もついてない武田正人は、何か悪いことをするんじゃないかと不安があったが、そのサイトにあったメールアドレスへメールを送った。くしくもメールアドレスはblue@drhp.orgだった。しばらくして、その返信が来た。
『後日、指定する日時と場所で、ひとりの男が一千万円という大金を持って来ます。その金を受け取ってください。もし、相手が何か言ったなら、「ちゃんと返す」とか言えばよろしい。ことが済めば金はすべて貴方のものです』
 その通りに、武田正人は実行したのである。だから誘拐した娘のことなど知らなかった。
 単なる身代金の受け取り人だった。これで事件は振り出しに戻った。素藤麻衣はまだ戻らない。

 その夜、ひとりの中年の男が夜の街を歩いているときに、不意に出現した少女に「お父さん、ですか」と訊かれる場面があったことを、誰も知らなかった。

 そして数時間後、食堂『ふるさと』を見つめている少女の姿があった。さっきと同じ少女だ。その瞳には疑惑と不安な様子が漂っていた。
 営業時間終了九時前なので、食事を終えた客は帰って行き、店内は古田里子ひとり残っている。看板であるのれんを降ろそうと外へ出た里子の姿を、少女は思わずギクッとした。どこかへ隠れようと逃げるが、その存在に気づいた里子の視線とぶつかってしまった。里子は瞬く間に驚愕した。
「ま、麻衣ちゃん?!」
 少女は素藤麻衣だった。誘拐以来、三日間消息不明だった麻衣が、ひょっこり里子の眼の前に現れたのだ。里子は周囲を気にしながら足早に麻衣の所へ近づいた。麻衣は動かないまま、うつむいている。
「どうしたの。犯人から逃げ出したの?」
 何も応えない麻衣の腕を、里子は店内へ入るように引っ張った。
「とにかく中へ入ってちょうだい。おうちのほうは、わたしが連絡するから」
 麻衣は里子に言われるまま、食堂の中に入り、四人用テーブルの席に座った。まもなくお茶が運ばれて来る。
「お腹空いてない?」
 里子に問われると、麻衣の腹が鳴り出した。
「お腹空いてるのね。ちょっと待っててね。ご飯つくったげるから」
 麻衣の返事を待つまでもなく、里子はいそいそと厨房へ向かった。その様子を、麻衣は複雑な表情で見送っていた。しばらくして、ご飯独特のいい香りとともに料理が運ばれて来る。
「さ、召しあがれ」
「い、いただきます」
 頭をさげた麻衣は、割り箸を取って食事を始めた。
「さ、ごゆっくりね」
 里子は麻衣の席から離れて厨房へ戻った。麻衣にとって、里子がつくってくれた料理は、今まで味わったことのない味があった。
 麻衣の日常での食事はハンバーガー、サンドイッチ、菓子パン、コンビニの弁当やおにぎりなどがほとんどで、仕事に忙しい両親と一緒に食事することがあっても、メイド(家政婦)がつくる料理か、外食しかなかった。母親の手料理、あるいは自分で調理することもないから、食事に対する感覚(とくに味覚と嗅覚)が鈍り、感謝の気持ちが薄れるとともに、食事は日常の日課としてあたりまえとしか認識しなくなってしまった。
 そんな個食(あるいは孤食とも)だった麻衣が今、里子の料理をゆっくり味わっている。料理の色と形が目に優しく(視覚)、料理の香りと温度が鼻をくすぐり(嗅覚)、料理の味を自分の舌で確かめ(味覚)、料理の口の中で砕ける音を感じ(聴覚)、料理の運ぶ箸の触角が、麻衣の体を包んでいた。
「おいしい……」
 気持ちの底から出た言葉だった。思わず麻衣の目から流れ出るものがあった。

 素藤麻衣は警察に保護され、家族の元へ戻った。この三日間の行方や犯人の手掛りなど、調査した警察だが、麻衣の応えは意外なものだった。
 家出しただけ――
 何もかも嫌になったからただ家を出たかっただけ、と麻衣は記者会見で発表したのである。どよめく会場の中、腹を立てた母親が麻衣のほほをひっぱたいた。
「親の気も知らないで、よくもそんなことが言えたわね!」
 ぶたれたほほに手を当てながら、麻衣はきっとにらみすえた。
「ふん、本当の親でもないクセに!」
 その言葉が出たとき、母親は血の気が失せたように真っ青になった。親子ゲンカで終った記者会見だった。

 数日後のある日の放課後、素藤麻衣は食堂『ふるさと』へ向かっていた。その瞳は何か決意するような輝きがあった。平日でまだ営業中であったが、客がいないようなので、麻衣にとって入りやすかった。
「いらっしゃい!」
 来客に向けた古田里子の笑顔が、一瞬こわばった。
「ま、麻衣ちゃん?」
 麻衣はぎごちない表情でお辞儀しながら、カウンターの席に着いた。メニューを見ながら、
「あ、あの、おにぎり二個、お願いします」
「あ、は、ハイ」
 麻衣の注文に、里子は早速調理を始めた。だが、内心穏やかではなかった。素藤麻衣と古田里子の間に、尋常でない雰囲気が漂っていた。何か気まずい様子だ。
「ハイ、お待ちどうさま」
 おにぎり二個とお茶を運んで来た里子は、麻衣の顔を直接見ないようにしていた。卓へ置くとさっさと離れようとする里子を、麻衣は思い切って呼びかける。
「あ、あの、古田里子さん」
 里子はゆっくり振り向いた。が、やはり麻衣の顔を見ようとしない。そんな里子の様子を見つめながら、麻衣は決心するように、
「いえ、中山理代(なかやまりよ)さん、ですか」
 その名が聞こえたとき、里子はひどくびっくりした顔を麻衣のほうへ向けた。
「ど、どうして、わたしの名前を?!」
「やっぱり、お母さん、なんでしょう」
「と、とんでもない。わたしがあなたの母だなんて」
「お母さん!」
「いいえ、わたしは知りません」
 首を振り続けた里子は逃げるように奥へ消えた。がっかりした表情の麻衣は、食事のあと、代金を置いた。
「ごちそうさま。また来ます」
 出入口を出た麻衣の背中を、遠くから眺めている里子の姿があった。ひどく、悲しげな表情だ。
「麻衣……」

 それ以来、食堂の表に『事情あってしばらく休業します』の貼り紙を残したまま、古田里子の姿を見た者はなかった。
 久しぶりに『ふるさと』へ来た羽沢美鶴は、貼り紙を見てがっかりした。来た道を戻ったとき、ひとりの女子高生とすれちがった。そっと振り返って見ると、女子高生も貼り紙を見て、表情が曇った。
(あの子、たしか、この間の誘拐された女の子じゃ……)
 素藤麻衣であったが、その辺の事情など何も知らない美鶴だった。

 素藤麻衣が自分の出生に疑問を持ち始めたのは、中学三年生、高校受験のために戸籍を入手したときだった。養女という二文字をはじめて目にした麻衣は、それまでの人生が裏切られたようなドス黒い気分に陥った。
 幸い試験に合格し、高校に入学するとともに、裏の顔としてインターネットのネットアイドル(ホームページ)となった。ハンドルは『まい』である。
 両親ともインターネット関連企業の重役であったが、麻衣のネットアイドルとしての姿を発見したとき、親子ゲンカが凄まじかった。そのときの麻衣はよっぽど家出してやろうかと思ったものの、金持ちの令嬢たる故(ゆえ)か、自分の力で生活する術(すべ)を知らなかったので、将来AV女優か何かになることを夢見ながらネットアイドルとともに援助交際(エンコーガール)もするようになった次第であった。
 出会い系サイトのカリスマプレイボーイ、ブルーの存在を知ったのも、その頃だった。
 誘拐されたが、それほど恐怖は感じなかった。自分の存在がウソだとわかった以上、両親を裏切ってやりたい気持ちのほうが強く、心情を爆発させたい一心で、いつものエンコーガールのつもりで誘拐犯人に身を任せた。
「君は自分の実の両親のことを知りたくはないか」
 犯人の意外なひと言で、麻衣は知りたいばかりに今の心境、状況を忘れていた。犯人の口からはただ両親の名前と住居のことだけしか出なかったが、それだけでも満足だった。
 犯人から解放されると、その足で両親の存在を確かめようとした。まず父の存在を確認したあと、鉄道に乗って母の住む地方へ向かった。それが古田里子の食堂『ふるさと』であった。しかし、古田里子のつくってくれた料理の味が、麻衣の心を清らかにしたのだ。
 少しずつ自分の行動を反省し、悔やんでいる。養子関係とは言え、今まで育ててくれた父母に対して心配をかけたことに対する詫びの気持ちもあり、また、もう少し犯人の顔を見ておけばよかったと考えた。
 誘拐犯は、M新聞の記者をやっている中山達男と、別の地域で食堂を経営している古田里子こと理代のことを教えてくれた。だから中山達男については、新聞社に問い合わせれば、仕事の時間や住居のことなどを知り得ることができた。
(犯人はなぜ、あたしの秘密を知ってたのだろう?)
 そう思うと、不思議でならなかった。だからこそ、母の行方がわからない今となっては、父親だという中山達男にもう一度逢って、もっと突き込んで話をしたいと思っていた。
 そんな麻衣を、ひとりの男が訪ねた。
「素藤麻衣さん、ですね」
「ハイ、あたし、素藤麻衣ですが、あなたは……?」
「僕はY新聞の蒼川という者です」
「え……?!」

 M新聞記者の中山達男は、真面目に仕事をこなすより、競馬や競輪、競艇などギャンブルに興じて一攫千金を夢見るようなタイプの男だった。真面目に取材するより、スキャンダルになりそうな情報を手に入れては、それをネタに強請(ユスリ)をやっていた。まさにハイエナのような存在だ。
 そんな男でも、かつては恋人がいた。それが理代だった。
 一流企業の事務員を勤めていた理代は、誰からも好かれる真面目で明るい反面、将来に自分の食堂を持ちたいという夢があって、それを簡単に叶えてくれそうな男(スポンサー)と交際したいという欲望もあった。だから、事務員という昼の顔と、スナック店のホステスという夜の顔を使いわけていた。
 そんなときに出逢ったのが、駆け出し記者だった頃の中山達男である。二十年前のことだった。だが、愛情より金を優先とする、歪んだ交際しかなかった。
 年月が流れ、いつの間にか妊娠してしまったので、それを理由に結婚したのだが、産まれた子供に対して、達男はいい父親ではなかった。一時は離婚も考えた理代は、その一方で子育てするのにだんだん嫌気がさした。養子縁組を斡旋する団体に相談すると、あっさり子どもを欲しがる若い夫婦が引き取ることに決まった。
 結婚のために退社していた理代は、生まれ変わったつもりになって、離婚とともに、食堂を経営する計画を立てていた。上司にも職場にも結婚したことを報告していなかった中山達男にとっても、まさに渡りに舟で、ふたりの間にマンネリな雰囲気が漂っていたのも、理由のひとつだった。
 その頃、中山達男には新たな興味がひとつ増えた。パソコン通信とインターネットである。まだ現在ほど普及してない時代であったが、達男が興味を覚えたのは、裏サイトだった。アダルトビデオ製造、販売、麻薬類の販売、売春婦の斡旋、そして殺人、強盗など、犯罪がはびこるネット界の中を泳ぎまわった。
 記者根性のためでは決してなかった。裏情報を得るためと、金になりそうなことを捜すためだ。そんなときに見つけたのが、一家心中、誰か手伝っていただけませんか、という掲示板の書き込みだった。
 両親に反対されて結婚に踏み切った若いふたりだが、社会にも認められず、子供を産んだ以上、生活も苦しくなる一方で、これ以上生きていく自信がなくなった。だから保険金を報酬として、自分たち三人を事故のように見せかけて殺してくれませんか――
 これだ、と中山達男は何かひらめくものがあった。交通事故なら事件としてあまり認識されないから、これを利用しない手はない。
 理代を誘ってドライブに行き、あまり交通量のない海辺の狭い道路でお互いの車がすれちがうとき、接触によって運転の過失で、二台とも海へ落ち、自分だけが助かるという筋書を、達男は考えた。早速、心中願望のメールアドレスへ送信した。まもなく返信が来て、実行することになった。
 結婚生活最後の想い出としてドライブに誘ってくれた達男の真意を、何も知らない理代は、少しも疑いもなく、喜んで助手席に乗った。
 そして、事故が起きた――
 海へ落ちた車から脱出に成功した中山達男だが、運悪く(?)、理代も脱出してしまった。海に落ちた相手の車の人たちを救助すべく、連絡する理代の手を、達男は厳しい表情で制した。
 いぶかる理代は達男からすべてを聞くと、共犯者となる代わりに、自分も海に落ちて消えたような形で、自分の存在も消すことにした。
 それ以来、理代は古田里子と名を変え、別の地域で食堂を買い取り、経営するようになった次第であった。が、人を殺したという罪の意識が、理代を苦しめていた。その反動で、料理に対するこだわり(味や調理法など)を深めるとともに、地域の悩める少年少女たちのよき相談相手として、一生懸命心を砕くようになったのである。
 また、自分の腹を痛めたひとり娘の存在も、風の便りで何となく知っていた。
 時代の流行で、興味を持っていたパソコンを購入、インターネットを始めた。数か月後、偶然にも自分の娘がネットアイドルとしてホームページを表示しているのを発見したとき、少なからずショックを感じていた。
 自分の夫だった中山達男もインターネットで裏サイトを知り、犯罪に手を染めた。その娘もまた、同じインターネットで自分の裸身を惜しげもなくさらしている。
 因果応報、という四文字を思い知らされたような気持ちだ。
 その麻衣が誘拐されたことをニュースで知ったとき、理代は連絡を取った。相手は元夫、中山達男である。そのときの達男は、麻衣が誘拐されることはすでに了承済みだという態度だった。
「あんた、また何かやったのね?!」
 昔の犯罪から連想するものがあった理代に激しく問い詰められると、達男は白状した。
 インターネットの裏サイトに、賭博するサイトがあって何度も通うようになって、莫大な借金をつくってしまった。請求メールがひんぱんに来るようになって、首がまわらなくなったときに、ローンサイトという金を貸すサイトに登録したが、ますます火の車になるばかりでしかない。そんな達男のもとに、一通のメールが来た。
『借りた金を返金する代わりに、娘の肉体を提供すれば、すべての金は当方立て替えます』
 差出人は蒼川健作、メールアドレスはblue@drhp.orgだった。
 かつての娘がネットアイドルになっていることをすでに知っていたが、親心も何もあったものじゃなく、喜んで承知してしまった達男であった。
「あんたって、最低の父親、最低の男だわ!」
 すべてを聞いた理代に激しく責められても、反省する様子もない達男だった。
 そのあと、誘拐事件のニュースで蒼川健作なる容疑者の顔を見ても、我関せずの態度を取っていた達男の前に、ひとりの少女がひょっこり現れた。誘拐犯から解放されたばかりの素藤麻衣だった。さげすむような視線で、呼びかけた。
「お父さん、ですか」
 いきなりだったから何も応えられないでいる達男に、麻衣は背を向けて足早に去った。

 数日後の夜、人気のない、寂れた公園で、灯りも薄暗い場所に、人待ち顔の影があった。麻衣だった。やがて近づいて来る足音が聞こえた。そのほうへ顔を向けると、達男が現れた。
「お母さんは、どこにいるんですか」
「な、何のことだか、オレにはさっぱり」
「ウソ、知ってるんでしょ?!」
「オレたちはとっくに別れてるんだ。だからオレは父親でも何でもない」
 麻衣は今にも泣き出しそうな顔を、達男に向けた。
「やっぱり、やっぱり十五年前に関係あることなんですね」
「十五年前……?!」
 達男の顔が急に恐くなった。
「オマエ、いったい誰から聞いたんだ。誘拐犯人か?!」
「あたし、何も知らない」
「うそつけぇ!」
「キャッ」
 達男は麻衣の肩をどづいた。もろくも麻衣が転びまわる。
「いかに父親でも女の子に乱暴するのはあまり感心しませんね」
 不意にどこからか、別の声が聞こえた。周囲を見まわしながら達男は誰何する。
「だ、誰だ?!」
「Y新聞の蒼川という者です」
「何、蒼川、だと」
 暗闇からひとりの男が現れた。その顔を達男は見据えた。
「オマエか。麻衣を誘拐した犯人、蒼川健作というのは」
「ち、ちがう。あたしを誘拐したのは、その人なんかじゃない」
 倒れたまま叫んだ麻衣の声を聞いた達男に、男は言った。
「いや、犯人でないのは確かです。それより中山さん、十五年前のことを聞きたく思いますが、時間はよろしいですか」
「なぜ今頃になってそんな事件のことを持ち出すんだ」
「ほぉ、事件ですか。何か犯罪のような言いかたですね」
 一瞬、達男の顔がピクンと震えたように感じた。
「十五年前と誘拐事件に何か関係あるのか」
「僕は誘拐に関係あるとは言ってませんが」
「ウヌ」
 しまった、という表情だ。
「僕は仕事で、あるひとりの女性を取材する手筈でした。その過去を調査してみたら、意外なことがわかったんです。十五年前以前のことは空白になっています」
 話を聞いているのか、達男はタバコに火をつけ始めた。身を起こしながら麻衣は真剣な表情で聞いている。
「十五年前、中山さんの奥さんが、交通事故で行方不明になったのはちょうどその頃」
 えッ、と驚いた表情が麻衣の顔に表れた。
「しかも、僕の調べている女性と、中山さんの奥さんの年齢は同じです。偶然にしてはできすぎじゃありませんか」
「だから、何だ。その女と、オレと何か関係あるとでも言うのか」
「関係あるから話してるんです」
「バカバカしい」
 吸い終ったタバコを、達男は乱暴に投げ捨てた。
「タバコのポイ捨ては禁止だ」
「何を、生意気な!」
 怒りを表した達男はさっさと歩き出した。
「僕の話はまだ終ってない」
「オマエの話などバカバカしくて聞いてられるか」
「何がどうバカバカしいですか。説明してください」
「オレの女房がどうの、食堂の主人がどうの、オレには何のことだかサッパリだ」
「ほぉ、食堂の主人、僕は言った覚えはありませんが、ね」
「あッ」
 しまった、というように達男は慌てた。
「食堂の主人というのは古田里子のことですね。つまり、あんたの亡くなったはずの奥さんだ」
「オマエ」
 達男の顔が歪んで、醜悪な形相に変った。
「何か嗅ぎつけやがったな。生かしちゃおけねぇ!」
 見ると達男の右手には路傍の石が握られていた。殺意のある行動だ。
 殴りかかる達男の右手を、左手で掴む。次に右脚を、達男の両脚の間に入れると、素早く腰をまわしながら達男の左脚を払い蹴った。柔道の払い腰だ。
「うわッ」
 達男はもろくも転んだ。
「ヤローッ」
 なおも向かって来る中山達男。石を握ったままだ。よけながら右手のチョップで達男の右手をたたく。
「ツッ」
 達男の右手から石が落ちた。
「クッソォ」
 達男は何を思ったのか、怯えながらただ見ているしかなかった麻衣を人質にしたのだ。達男の右腕が麻衣の首を絞めようとしている。麻衣は信じられぬふうだ。
「一歩でも動いてみろ。この娘の命はないぞ」
「それでも人間か。自分の娘を人質にするなんて、おまえは最低の男だ」
「けッ、何とでも言いやがれ」
 達男は麻衣を人質にしながらゆっくりうしろへ向かっていた。そのとき、ちがう気配を感じた。小柄な身体が、達男にぶつかったのだ。
「グァッ」
 麻衣から離れた達男は崩れ倒れた。見ると、腹から腰にかけて刃物が刺してあった。血があふれている。
「お、お母さん?!」
 麻衣が驚くように呼んだ。中山達男を刺したのは、古田里子ことかつての妻、理代だった。憎悪の炎が揺らめく瞳で、達男を見おろしている。
「やっぱり、最低の男だわ」

 事件は終った。重傷を負った中山達男は病院へ運ばれ、一命を取り留めた。古田里子こと理代は、殺人未遂で警察に連行された。そして素藤麻衣は無事保護され、家へ戻ったのである。
 だが、誘拐犯人はまだ捕まっていない。素藤麻衣を誘拐した真の目的は何だったのか、わからない。借金返済のためというのが動機のひとつになっているので、共犯容疑で中山達男は逮捕された。
 自分の出生について悩んでいた素藤麻衣に、実の両親の存在を教えたという誘拐犯人の正体は、十五年前の亡霊ではなかったか、と、僕(蒼川健作)は思う。あの心中願望一家の中、子供だけが生き残っていたのだ。そうだとすれば、年齢はもう充分に成人のはずだ。今どこで何をしているのか、資料がないから、わからない。
 そいつがなぜ、蒼川健作と名乗ったり、同じメールアドレスを使ったりするのか、わからない。まるで僕の分身が、僕の知らない世界で、自分勝手に動きまわっているようなものだ。
 インターネットの闇に潜む蒼川健作(ニセ者)の正体を突き止めるために、もしかすると法を犯してしまうかも知れない。敵に遭遇しないとも限らないし、命の危険もあるだろう。それでも僕はやるしかない。自分の名誉を守るために……

 数日後――
 被告人、中山理代に面会があった。素藤麻衣である。お母さんと呼んでくれる麻衣に対して、理代は素直になれず、麻衣の顔を見ようともしなかった。
「お母さん、あたし待ってるから」
「………」
「お母さんの味、また食べたいから」
 その言葉を聞くと、理代はまっすぐ麻衣の顔を見た。麻衣の顔は泣いていた。
「とってもおいしかったから。『ふるさと』、ふたりでやりなおそうよ。だから、あたしいつまでも待ってるから」
「ま、麻衣……」
「お母さん!」
 悲しくて、美しい母娘の場面であった。